『信仰によって立ち向かう』
サムエル記上17:41~47
少年ダビデと身の丈約3mのゴリアトの戦いに学びます。ペリシテ軍は、この巨人とイスラエル軍から誰か一人を出して一騎打ちを迫りました。残念ながらイスラエル軍からは誰も名乗り出る者がありませんでした。そんな中、兄たちの食事を届けに来た少年ダビデが、「わたしは羊を守るために獅子も熊も倒してきました。わたしを守ってくださる主があのペリシテ人からもわたしを守ってくださるにちがいありません」と、その一騎打ちに名乗りを上げたのです。
兄たちは正気の沙汰とは思いませんでしたが、サウル王は自らの鎧兜と王剣をダビデに託して任せることにしました。ダビデは文字通り「身の丈に合わない」とそれらを脱ぎ捨て、いつも通りの羊飼いの投石袋に石を五つ入れて立ち向かい、見事に巨人ゴリアトを打ち倒したのでした。この大金星にイスラエルは勢いづき、ペリシテ軍に対して大勝利をおさめたのでした。人は、「弁慶と牛若丸」、「ねずみの相撲」もそうですが、子どもが大人を、小さい者が大きい者を打ち負かす様に痛快さを覚えるものです。
ところで、聖書は、旧約聖書だけ、また、ある部分だけを読むならば、戦争美化にさえなりかねません。この時には敵対者であるペリシテとは、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤフェトの内、ハムの子孫であること、すなわちイスラエルと同族であることが分かります(創世記10章)。
アブラハムは長い間、ペリシテに寄留していましたし、イサクは飢饉の時、ペリシテにおいて身を守ることができました(同21章、26章)。本来、共に唯一の主を信仰し続けていれば争う必要の無い間柄なのです。
また、イスラエルは少年ダビデの勝利を大喜びしましたが、その後、サウル王がダビデに深い嫉妬を抱くようになり、イスラエルに王位の争い、暗い影を落としていくことになります。「少年が勝利をおさめた」ことが、祝福をもたらすものではないことが分かります。
私たちは、主に信頼して試練、苦難に立ち向かっていくことを学び取り、全ての国家、民族が祝福を分かち合って生きていくことが主の御心であると信じます。やがては皆、神の国において一つの民となるのです。召天者祈念礼拝は主の平和を願う礼拝なのです。ハレルヤ!
中島聡牧師