『苦難の祈りによる救い』
ルカによる福音書22:39~53
「オリーブ山の祈り」(*マタイ、マルコではオリーブ山の入り口の「ゲッセマネの祈り」)に学びます。この祈りにおいてイエス様はいよいよ十字架による死を決心されます。イエス様は弟子たちを従えていましたが、この祈りにおいては「離れて」お一人で祈られました。私達の罪の贖いの犠牲となることができるのは、神の御子、独り子だけだからです。
イエス様は、ひざまずき(マタイ:うつ伏せになり、マルコ:地面にひれ伏し)祈られました。これは、完全に主の前に遜り、自分のすべてを明け渡して祈る、ユダヤ人の伝統的な祈りの姿です。祈りはポーズによるものではありませんが、神の御子が、私たちの罪の贖いのため、私たちの救いのために、地べたにひれ伏されたことを忘れてはならないと思わされます。
旧約時代、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、アロン、サムエル、ダビデ、ソロモン、エズラ、ネヘミヤ、イザヤ、エレミヤ、ダニエル、ヨナ、実に多くの祈りが捧げられました。ほとんどが、祝福を求めるもの、助けと赦しを求めるものです。そのような中、「我が子を一生、主にお献げします」というハンナの祈り(サムエル記上1:11)、また「このために死なねばならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」というエステルの祈り(告白)は傑出していると言えます(エステル記4:16)。
しかし、旧約聖書において最も知られている祈りは『ヤベツの祈り』ではないでしょうか。「『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください』と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。」(歴代誌上4:10)
実にシンプル!ド直球!「わたしを祝福し、わたしと共にいて、わたしを守ってください」、少し自己中心に過ぎやしませんか?と思えるほどですが、聖書はこの祈りを書き残してくれているのです。神様がどんなに私たちを祝福したいと思ってくださっているかが強大に示されます。
イエス様は私たちの救いのための『苦難の祈り』をただお一人で捧げてくださいました。弟子たちが眠っていても、心合わせてくれなくても、それでも祈ってくださいました。これ以上の「神の愛」はありません。私たちは神の愛によるイエス・キリストの十字架、御体と血潮の犠牲に感謝して、克己の献金を献げ、大胆に祝福を求める祈りを捧げ、さらに祝福をこの地に広げていくことができるように示された福音宣教に邁進して参りましょう。 ハレルヤ!
中島 聡牧師