『祝福の奇跡』
ヨハネによる福音書2:1~11
ヨハネ福音書はマタイ、マルコ、ルカとは異なる部分が多くあります。どちらが正しいかではなく、ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれており、イエス様の愛、神の愛に焦点を当てることが多いと言えます。
ヨハネは「カナでの婚宴」における奇跡を「最初のしるし」と記していますが、他の福音書では弟子を招く前から数え切れない病の癒やしの奇跡、悪霊を追い払う奇跡が行われていたとあります。
確かに、イエス様御自身が「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12,13)と言われたとおり、神の御子は病の癒やし、罪の赦しのために来られたのであって、いわば「うっかりミスのカバー」のために来られたわけではありません。
この「しるし」は、イエス様の母マリアの願いによっておこされたと言えます。マリアもイエス様も弟子たちも「招かれた」とあり、親しい間柄であったとは思いますが、主催者側ではありません。しかし、マリアはイエス様に「ぶどう酒が無くなりました」と告げました。イエス様は「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。」と実に素っ気ない、冷たい返事をします。普通ならここで終わりです。しかし、マリアは召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と一縷の望みを残しました。
「わたしの時はまだ来ていません。」ここに深い意味があります。イエス様の奇跡の力は、悪魔も目をつけていました。ですから、一番最初に、「この石をパンに変えればよい」と誘惑しました。神の御子としての「しるし」、奇跡の力は都合の良いことに用いるためではなく、癒しと赦しのためにあります。人々は喜ぶでしょうが、救いの本質から離れてしまいます。かつてイスラエルの民が、「水をくれ、パンをくれ、肉をくれ」と願って与えられても「金の仔牛」を拝んでしまった時に戻ってしまいます。この奇跡によって「それで、弟子たちはイエスを信じた」とありますが、やがてイエス様を裏切り、逃げてしまいました。都合の良い奇跡で人が救いに至ることは無いのです。
しかし、それでもイエス様は水をぶどう酒にしてあげました。当時の習わしでは、「劣ったもの」でもいいのに、わざわざ「良いぶどう酒」にされました。古いイスラエルと新しい救いのしるし、いろいろ解釈はありますが、結論は新郎新婦への「愛」です。
もう一点。イエス様のしるし、奇跡はおこせばおこすほど、ユダヤ教指導者の嫉妬、怒りを買い、十字架が近づくことになります。それでもこの奇跡をおこされました。天地創造の時から父なる神が人を特別に祝福されたように、神の御子イエス・キリストも私たちを祝福したい、奇跡によってでも祝福したいと願っておられるのです。この祝福の奇跡を信じ伝道に向かいましょう。ハレルヤ!
中島 聡牧師