『癒しの奇跡』
ヨハネによる福音書4:46~54
カファルナウムの地で、瀕死であった王の役人の息子の癒しに学びます。王とはその地の支配をローマから委任されていたヘロデ・アンティパスのことです。アンティパスの父ヘロデ大王は、東の国の学者たちに「新しい王はどこでお生まれになったのか」と問われ、その後「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイ2:16)人物です。
大王の息子も当然イエス様のことは危険視していたことでしょう。その王に忠誠を尽くさねばならない役人がイエス様に癒しを求めるのは、ひとえに親心でしかありません。
イエス様は、役人に対して「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と、奇跡を見た上での信仰は救い主を信じる真の信仰ではないことを告げます。そこには罪の悔い改めも、真にイエス様が神の御子であって罪の赦しを与えてくださるという信仰がひとかけらも無いからです。
信仰を理解できていない役人ですが、それでも「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください」と癒しの奇跡を懇願します。子を想う親の愛だけがここにあります。
これに対してイエス様は「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と癒しの奇跡をおこされます。カナの婚礼の時と同じです。イエス様は何よりも愛を優先されるのです。使徒ヨハネも、パウロも「最も大いなるものは愛である」と御教えを受けとめています。
イエス様の「生きる」という宣告と同時刻に息子が癒されていたことを知った役人は、「彼もその家族もこぞって信じた」とあります。信仰に入る順序としては、超常的な現象を見た、体験したからではなく、聖書を読み、罪を悔い改めて洗礼を受けることです。しかし、もしそこにイエス様の愛を感じることがなければ、やがては消えていってしまいます。
尽きるところ、信仰とは自分の力でも人の力でもありません。ただ、神の愛を感じ、信じるところにあるのです。
「カナの婚礼の奇跡」、「役人の息子の癒しの奇跡」は、どちらも救いに至る道筋を外れていますが、ここに関わった人たちがダメという話ではありません。そこにはイエス様の弟子たちもいました。トマスはイエス様が復活されたと聞いてもなお、「釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張り、イエス様はそんなトマスに見せてくださいました。トマスを愛しているからです。神は、救いは愛です。ハレルヤ!
中島 聡牧師