『過ちと許し』
マタイによる福音書6:14~15/ヨハネによる福音書16:33
本校では今年も9月末に各学年、全校修養会が行われました。私は3学年に同行し3泊4日で広島に行きました。今回、驚いたのは海外から来られている方が非常に多いことです。平和記念公園を歩いていると海外からの方と学校関係の団体がほとんどでした。話す言葉を聞いていると英語よりも他のヨーロッパ諸言語の方が多い印象を受けました。ヨーロッパの方々の核戦争への危機意識の高まりが関係していると思います。資料館を見学した後、地元のボランティアのガイドの方が公園内を案内して説明してくれました。丁寧な説明で生徒たちも熱心に聞いていました。今の世界状況だからこそ広島で修養会を行うことの意義を実感しました。
公園中央にある原爆死没者慰霊碑にはつぎの文字が刻まれています。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから。」慰霊碑の前でガイドさんは、「過(あやま)ちとは誰の過ちだと思いますか」と質問されました。私は「アメリカの過ちですか」と訊きました。ガイドさんは肯定も否定もされませんでした。この問いには日本の戦争責任も問われています。後で考えて、ガイドさんの問いは正解のない問い、むしろ、いつまでも問い続けなければならない問いのように思いました。
私たちは、「過ちは誰にでもあるもの」とよく口にします。消しゴムで消せるような過ちならば、許すことも容易でしょう。しかし原爆投下は、許される過ちと言えるのでしょうか。世界に目を向けるとき、今も戦争で多くの方が犠牲になっています。家族や親しい人が犠牲になった場合、簡単には相手を許すことはできません。戦争の悲劇とは、互いに相手を許すことが容易でない過ちを、組織的に行い続けなければならないことかもしれません。
今日の聖書でイエスは、「ゆるし」について述べています。「もし人の過ちをゆるすなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをおゆるしになる。しかし、もし人をゆるさないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをおゆるしにならない。」イエスは、私たちに、相手の過ちをゆるすことを求めます。
まず、あなたが相手をゆるすこと、その行為があって、初めて、あなた自身の犯した過ちを神様は許して下さる、そのようにイエスは教えます。ゆるしを与えること、それこそが、過去の傷を乗り越える道だからです。人間にはゆるしを与える能力が与えられています。そして、そこに人間希望がある。それは過去を変える力、そして対立を乗り越え、新しい未来を切り開く力とも言えます。本校もそのような希望を生徒たちに語れる学園でありたいと願います。
小田中 肇師(敬和学園高等学校長)