みことばの糧1191

『人の裁きから神の赦しへ』

マタイによる福音書26章57節~68節

受難節、私たちは今、イエス様の十字架への道行きに学んでいます。

神の御子が十字架に磔られる。すべては私たちの罪の赦すためです。罪を赦す、これは要するにマイナスをゼロにするということですね。ゼロ、というと余り有り難くない気がしますが、有罪を無罪にする、という言いますと、どれだけすごいことかが分かります。

これだけでもすごいことなのですが、さらに有り難いことに、十字架は罪を赦すだけではなく、永遠の命を与えるためでもあります。つまりマイナスをゼロするばかりか、プラスもプラス、罰を受けるはずが、もっとも優れた報償、神の国、天の国に迎え入れられるという恵みを与えるというのです。アメイジンググレイスですね。だからこそ、わたしたちは、このように召天者祈念礼拝を感謝をもって守るわけですが、愛する家族が、愛する友が、先達が、天において永遠の平安に入れられている、そしてわたしたちもやがてはそこに迎え入れられる。この世のものによっては得ることのできない恵み、恩寵。しかして、そのためには、イエス様がどれだけの犠牲を払ってくださったか、十字架に至るまでの道を、十字架の真の意味を私たちは知っておかなければなりません。

主の御名を誉め讃え、その大切な一場面を見て参りましょう。ハレルヤ!

今朝は、イエス様を十字架刑、死刑にしようとする裁判の様子です。それは、ユダヤ教指導者の最高位に位置する大祭司カイアファの邸宅において行われました。その裁きの場は、最高法院と呼ばれていました。大祭司を頂点とする71人の議員、祭司長、律法学者、長老等で構成されるユダヤの最高議会が開かれ、イエス様を被告人として、裁判が執り行われました。

59節に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」とあり、最初から死刑ありきの欺瞞に満ちた裁判でした。

裁判というと、先ず裁判長、裁判官、それから原告と被告、多くの場合、原告に検察、警察、被告には弁護人が付いていて、そして陪審員がいて判断していくわけですが、この欺瞞に満ちた裁判は、そもそも原告が裁判長を兼ねています。あり得ないですね。さらに陪審員も全員、最初からイエス様を死刑にしようと考えている議員たち。どうしても無理ですね。

弁護人がいないどころか、偽証をさせるためにあつらえた人たちが、嘘の発言を重ねていく、どうしようもない、もはや裁判とは言えない状況でした。

後で触れますが、唯一、弁護人となることができたであろうペトロは、イエス様をさして、「わたしはこんな人は知らない」と三度、言った、断言してしまった。これも偽証です。こんなこと、意図していたわけではありませんが、結果的にイエス様の周りは全て偽証になってしまった。

一点でも救いを願いますので、まぁ、「最高法院の全員」とありますが、たとえばイエス様の遺体の引き取りと葬りを願い出た「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」(マルコ15:43)や、富める青年議員(ルカ18:18、マタイ19:22)などは賛同したとは思えず、出席議員の全員と思われます。

さて、60節「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。」

それはそうでしょう。イエス様は、ひたすら、病を癒し、神の国の福音を説き続けておられた、何も死刑に値するようなことはしていないわけです。

ところが、61節、「最後に二人の者が来て、この男は『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました、と告げた」。確かにイエス様は「神殿清め」において、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)と言われました。

ただし、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体」(同2:21)のことであり、十字架の死から三日後に復活する預言であったのです。イエス様は自ら神殿を壊すとは一言も言っていません。「この場合も、彼らの証言は食い違った」(マルコ14:59)、仕方の無いことです。「イエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」(同14:55)。

ついに業を煮やした大祭司カイアファは、全ての偽証を棚に上げて、ただ一点、「お前は神の子、メシアなのか!」と糾すと、イエス様は堂々と、64節「あなたがたはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と答えられました。大祭司ら議員はこれを神への冒涜と決めつけ、死刑を採択しました。以後、イエス様に発言の機会を与えず、「イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った」(67-68)のでした。これが、神の愛を否定し、自分の価値観と考えに固執する罪の結末です。

先ほど、弁護人になることができたはずのペトロですが、結果的に、弁護人どころか、偽証人の一人になってしまった。しかし、先週、触れましたが、ヨハネ福音書18:16、ペトロは最初、この最高法院の場である、大祭司カイアファの邸宅の中庭には入っていないんです。彼は「門の外に立っていた」んです。しかし、もう一人の弟子、ヨハネが、彼は大祭司の知り合いだったので、先に中庭に入っていたヨハネが、門番に口ききをして、ペトロを中に入れたんです。

もし、この時、ペトロが、いや、無理だ、自分はここにいる、と断っていれば、三度の否認をすることはなかった。しかし、彼なりに、少しでもイエス様のそばに、近いところにと思って、自分も殺されるかも知れない、あぶないのに、入っていったから、三度の偽証をすることになってしまったんですね。いや、そもそも、イエス様に、網を捨てて、わたしに従ってきなさい、と言われた時に、それは無理です、と断っていれば、こんなことにはならなかった。

ペトロはがんばってイエス様を信じて、がんばって、がんばってイエス様に従って、最後までがんばったから、このようなことになったのです。

聖書は、決してペトロを責めるためにこのような記録を残しているのではありません。

わたしたちに、なんのためにがんばるのか。できないことを裁くためだったら意味がない。

聖書は、たとえ、イエス様を知らない、と言ってしまっても、その罪を赦してくださる、これは一度、信仰を捨ててしまっても、と言えますね。そこまで深いイエス様の愛を教えるためにあるのです。事実、イエス様は、ペトロを大切にされ、十字架から復活された後、もう一度、ペトロを一番大切に、教会の指導者として選ばれました。

ただし、それは力によるのではないことを、誰が一番かとか、そういうものではないことを教えられるために、わたしの羊を飼いなさい、と教えられました。しかも、わたしの子羊を養いなさい、と言われました。

小さなものの一人を守るように、すなわち、愛によらなければ教会を守って行くことはできないことを教えられたのです。

本日は召天者祈念礼拝です。子どもの教会でも先達を代表して、倉持牧師、ラング宣教師夫妻に触れさせていただきました。

神の愛によって、礼拝と共に救援物資の配布、薪の配布があったればこそ。青年たちによる数え切れない献身、奉仕があったればこそ。教会は建ち上がり、多くの魂の救いをおこし、今日に至っているわけですね。

そんな多くの先達方を葬る教会墓苑のために、昨日、清掃の御奉仕をいただきました。感謝いたします。小さなひとつひとつの奉仕によって、教会は守られています。

皆さん、イエス様は、この後も裁判にかけられていきます。今度は、総督ピラトの下に裁きが行われます。ピラトは、唯一、この人に十字架に値するような罪は見いだせない、と声を上げましたが、人々はイエス様の死刑を採択してしまいました。しかし、イエス様は祈りによって全ての人の赦しを選び取られました。神の愛とは赦しであることを知らされます。ここに隣人を愛しなさいの真義が示されています。

召天者祈念礼拝、私たちは、自らの命をもって、私たちに永遠の命を与えてくださった神の愛に満たされ、この教会を守り、福音を宣べ伝えていく決心を新たにしていただきましょう。召天者祈念祈祷をお捧げいたします。

中島 聡牧師