みことばの糧1190

『命を献げる祈り』

マタイによる福音書26章36節~46節

みことばの糧 1190『命を献げる祈り』
マタイによる福音書26:36~46

受難節の歩みを続けています。今朝は、「ゲッセマネの園」におけるイエス・キリストの祈りに学びます。
ゲッセマネの園は神殿のほんのそば近くにあります。つまり、敵対者であるユダヤ教指導者たちの本丸のすぐそこ、ということです。
遡りますと、最後の晩餐の場所も、敵の総大将、大祭司カイアファの邸宅のすぐそばだったのです。最後の晩餐の場所として選ばれたところは、マルコ(14:12~)と、ルカ(22:7~)によれば、イエス様の預言に従って弟子たちが辿り着いた場所なのです。

ルカ22:10-12で見てみましょう。:10イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、:11家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
このようにイエス様が自ら、ユダヤ教指導者たちの近くに、すなわち、十字架に向かっておられることが分かります。
それは、最後の晩餐の日が何の日であったかにも込められています。最後の晩餐とは、同じルカ22:7、「過越の子羊を屠るべき除酵祭の日」の食事であって、まさに自らを犠牲の献げ物とすることを暗示ではなく、もう明示しておられるのです。

このように、すでにイエス様は十字架刑を含む三度の受難の預言に続いて、この過越の食事、わたしは「命のパン」である、この血は「罪を赦すためのわたしの契約の血である」と言われた通り、御自身の命を献げることを繰り返し宣言しておられるのです。
もう十分、イエス様は、自らの十字架の死を顕しておられるのでした。
しかして、最後、その決心を実行に移すためにイエス様が取られた行動が、今朝のゲッセマネの園において「祈る」ということだったのです。

もちろん、最後の晩餐においても、イエス様は、何度も賛美の祈り、感謝の祈りを捧げておられます。そして、賛美の歌を歌ってオリーブ山の麓にある、このゲッセマネの園に向かっておられます。しかし、この祈りが必要だったのですね。なぜでしょうか?

マタイ26:31、イエス様は、園に向かう道中において、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」、弟子たち全員がイエス様から離れていくことを告げられました。そして、続けて、ペトロに向かって、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 ペトロが三度、否認することを告げなければならりませんでした。どんなにか辛いことであったでしょうか。
この時、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。「他の弟子たちも皆、同じように言った」とありますが、イエス様は、この後、人の罪のただ中に、真の暗闇を一人で進んでいかなければならなかったのです。

なぜ、イエス様が最後に祈らなければならなかったのか。
それは、イエス様が十字架に磔られる決定打を放ったのは弟子たちだった、ということです。無論、ユダヤ教指導者達はイエス様を殺そうとしていました。何度も何度も。
ですが、彼らは、民衆を恐れてイエス様に手が出せなかったのです(マタイ26:4-5、ルカ20:19、22:2)。福音書に何度も繰り返し記されています。

例えば、ルカ20章。イエス様は「葡萄園と農夫」の譬えをお話になりました。ある人が葡萄園を農夫たちに貸して旅に出た。主人は収穫を納めさせるために僕を送った。すると農夫たちは使いの僕を袋だたきにして追い返した。
主人は、もう一人、別の僕を送ったが、その僕も袋だたきにして追い返した。主人は三人目の僕を送ったが、また同様に傷を負わせて追い返してしまった。
主人は、最後に自分の息子を送った。我が息子なら敬ってくれるだろう。しかし、農夫たちは、息子に気づくと、「見ろ、跡取りだ、殺してしまおう。そうすれば葡萄園は我らのものだ」と、息子を園の外に放りだして、殺してしまった。

この譬えは、もちろん、葡萄園とは神殿であり、イスラエルのことです。使わされた僕は、モーセ、イザヤ、エレミヤ、バプテスマのヨハネ、そういうあたりでしょう。
農夫たちは、ユダヤ教指導者たちのことです。
せっかく、主人、父なる神から、すべての人に救いをもたらすための神の宮を預かりながらも、それを祈りの家ではなく、件棒術数、権力、策略の棲み家にしてしまったわけです。そして、最後の使い、息子とは、イエス様のことであり、イエス様を十字架で殺しことを預言しておられるのです。

聖書に書いてあるんです、この譬えの最後、ルカ20:19、「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」。
さすがに、これは自分たちのことを言っている、自分たちを盗人呼ばわりしている、と気づいたわけです。なので、続きがあります、そう「気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」と書いてある。

この最後の晩餐の時である、過越祭、大勢の群衆が、イエス様を新しい王として、「ホサナ!ホサナ!」と叫びながら、イエス様のエルサレム入城を熱狂的に歓迎しました。
ですから、マタイ26:3-5、「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談」しているんです。
ですが、「しかし彼らは、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた。」とあります。ユダヤ教指導者たちは、この過越の祭の間は、イエス様に手をかけるのはやめておこう、と決めていたんです。イエス様は、ものすごい民衆に人気がある、大変なことになる。

イエス様は、ユダヤ教指導者たちが、十字架の根本原因ならば、この時、捕らえられ、十字架に磔られることはなかったんです。
しかし、ユダが裏切ったんですね。
ヨハネ13:21~、最後の晩餐で、イエス様が、わたしが葡萄酒にひたしたパンを渡すものがそれである、とまで言われたのに、ユダがわざわざ、イエス様をユダヤ教指導者たちに引き渡す手引きをする、というので、イエス様は捕らえられ、死刑の判決を受けるカイアファの邸宅に連れて行かれたのです。
そして、その邸宅において、ペトロが「わたしはあんな人のことは知らない」と三度、繰り返して、否認し、イエス様を取り戻さなかったので、また、その場にいたもう一人の弟子、ヨハネもまた、沈黙していたので、イエス様はピラトのもとへ、そして、十字架へと連れていかれることになったのです。弟子達の離反によって十字架は成就したのです。

愛の裏切り、愛の否認、愛からの離反、絶望です。
なぜ、イエス様が、ゲッセマネの園において祈らねばならなかったのか。この痛み、この苦しみ、この悲しみから、なお信仰に生きていくには祈りなのだ、ということです。
イエス様は、まず「わたしは死ぬばかりに悲しい」(26:38)と祈っておられます。その通りですね。
ここで教えられます。イエス様が最も祈っておられること、それは、私たちが、神の愛に優先して、自分の計画、自分の考えを、こうあらねばならないと貫こうとする姿勢です。

先週、申しました。弟子たちは、十分イエス様と苦楽を共にしてきたのです。誰も仕えることができないような奉仕に仕えてきたんです。
しかし、ユダは、イエス様は、神の子だから、窮地に追い込めば、天の軍勢が動いてくれると、考えたんだと思うんです。イエス様の奥深い愛を理解せず、自分の力と自分の考えでイエス様を動かそうとしたんですね。これが最も重い罪なんです。傲慢の罪です。

だから、ペトロが、イエス様が最初に十字架の死を預言された時に、イエス様をいさめて、十字架の死を取り消させようとした時、イエス様に「サタンよ、引き下がれ!」とまで言われたのです。そして、もう一つ。 筆頭弟子のペトロとヨハネの罪。それは、できない、と断定することです。
私では、イエス様に仕えることはできない、私はイエス様をお守りすることはできない、と自らの賜物も、主の力も、すべてを否定し、黙ってしまうことです。

この受難節の聖書を紐解いていますと、少なからず暗い気持ちになってしまいそうになるのですが、そうではないですね。この人の、私たちの弱さ、陥りやすい罪、それら全てを赦し、贖うために、イエス様は十字架に向かわれたのです。私たちは、イエス様の完全なる愛によって守られるのですから、感謝なのです。
しかして、その十字架に向かうためには、イエス様ですら祈りが必要だった、ということを忘れてはならない。

今朝の39節、先ずは、イエス様をしても、「父よ、できることならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈らなければならなかった。それぐらい十字架は、過酷な凄惨な死であるわけです。むごたらしく、馬鹿にされ、嘲笑され、罵倒され、尊厳の全てを剥ぎ取られる死であったわけです。
「過ぎ去らせてください。」

今、イエス様は、自ら、「私にも過越の食事を与えてください」と祈っておられるのです。
しかし、しかし、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈ってくださったのです。
残念ながら、弟子たちは寝入っています。どんなに辛い、悲しい、寂しい、言葉にならないと思います。
しかし、イエス様は、その様を見ても、二度目の祈りに入られました。「父よ、わたしが飲まない限り、この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

皆さん、必死の人を横目に、とか、尻目にとか、いう言葉がありますが、まだ見ているだけましだったんですね。
弟子たちの目は閉じてしまっている。普通、「父よ、やはり、この苦しみの杯は過ぎ去らせてください」と祈るところ、イエス様は、眠っている弟子たちを見て、最初の祈りよりも、一歩、杯に近づいた祈りを捧げられているのです。
否、これこそが祈りだと教えられます。

わたししかいないのであるならば、御心が行われますように、と祈っておられます。すごいことですね。しかし、この祈りの後にも、弟子たちは、眠ったままでした。
しかし、イエス様は、三度目も二度目と同様、わたししかいないのであるならば、御心が行われますように、と祈られたのです。

ここで、知らされます。
イエス様は、常に、父よ、と呼びかけて祈っておられます。マルコでは、アッバ、父よ、とあります。イエス様がこう祈りなさい、と言われた主の祈り、がここに成就している。
イエス様が唯一、こう祈りなさい、と教えられた主の祈り、
我が父よ、と呼び掛け、御心の天になるごとく地にもなさせ給え。イエス様は、天における父なる神の最大の御心、すべての人の救いを、この地になすために、すべてを決意しておられたのです。
真の祈りとは、救いのために、福音宣教のために、自らを捧げる時に祈るものなのだと示されます。

自分の考えを通すこと、たとえ、それが正しいと思えても我を通すことを最優先にしてはならない。自分はできない、自分にはできない、確かにそうであったとしても、それを一番に置くのではなく、最優先は、一番は、御心ならばわたしを捧げます、という祈り、すなわち、愛であることを覚えたいのです。

イエス様がすべてを父なる神に委ね、「御心が行われますように」と“主の祈り”を捧げて十字架に向かわれました。
この愛こそが全てに勝利し、世に救いをもたらすのです。

イエス様はもちろん、ゲッセマネの園において、眠り込んでいた弟子たちのためにも祈られたのです。
ヨハネ福音書にはゲッセマネの園の祈りはありませんが、最後の晩餐の後、17章に「イエスの祈り」という表題が付けられた、一章全部、イエス様の祈りという、非常に長い祈りが記録されています。その中で、どれだけイエス様が弟子たちを愛しておられるかが分かります。
11節を読むと泣けます。
「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」
命を献げる祈りに眠ってしまう弟子たち、弱いですね。
しかし、イエス様の愛は、いささかも、1mmたりとも揺るがない。
そして、この祈りの最後、17章26節、「わたしに対するあなたの愛、天の父なる神の愛、彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」インマヌエルの主の御名を堅持されるんです。

イエス様、弟子たち、私たちとどんなことがあっても共におられるのです。教会はこの御子の愛に心満たされ、互いに励まし合い、助け合い、祈り合って福音に仕えていくのです。
感謝いたします。 ハレルヤ!

中島 聡牧師