みことばの糧1193

『復活の主を仰ぎ見る』

マタイによる福音書28章1節~10節

イースターおめでとうございます!

受難節、主の十字架への道行きを辿り、復活の朝を迎えることとなりました。

キリスト教会において最も初期に祝祭日と定められたこの日によって、十字架の死からの復活によって、ナザレのイエスが「キリスト=救い主」であることが証明されたのです!

しかし、しかしですね、その証言者がいなければこの最大の祝福は埋もれてしまうことになります。せっかくの復活も、永遠の命の証明も、それが与えられるという恩寵も、その証言者がいなければ、何にもなりません。その証を立てる者となるためには、先ずイエス様の死を直視する墓に行かねばならないのですね。

ところが、当然、その担い手になるはずであった十二弟子は誰一人として‘隠れ家’から出ようとはしませんでした。

1節、「マグダラのマリアともう一人マリアが墓を見に行った。」墓に向かったのは婦人たちでした。マグダラのマリアとは、マルコ16:9によれば、「このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。」とあります。これまでに、復活の第一証人はこのマグダラのマリアであったことは学んできましたが、今朝は、「マグダラのマリアともう一人のマリア」、この「もう一人のマリア」に注目したいと思います。「もう一人のマリア」とは誰でしょうか。マタイ27:56に「マグダラのマリア、ヤコブとヨハネの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」とあります。

マルコ15:40に「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」とあり、合わせ読むと、もう一人のマリアとは、「小ヤコブ(アルファイの子)の母マリア」となります。ゼベダイの子らヤコブとヨハネ、一般にこちらが大ヤコブと呼ばれ、福音書にその言動が記録されていますが、小ヤコブの言動は聖書に全く記されていません。しかし、聖書は、その母がイエス様の埋葬と復活に立ち会い、証言者として、我が子に伝えていることが分かるんですね。

そして、その小ヤコブが使徒言行録1:13の『使徒リスト』に「アルファイの子ヤコブ」と記されることへの導きとなっていることが分かります。小ヤコブの信仰が守られ、弟子から外れることなく、使徒にまで導かれる背景に、復活の主の証言者となってくれた彼の母、マリアの信仰を私たちは見るのです。母は強し。婦人は強しです。

また、イエス様に従ってきていた婦人たちについて少し触れておきますが、ルカ8:2によれば、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」とあります。弟子たちの母以外に、決してこの世的に恵まれていたわけではなかった人たちがいた、しかし、主に従い、イエス様の十字架と葬りと、復活には、一番近くにいて、その証言者となっていくのですね。

さて、受難節で徹底的に見てきましたように、イエス様は犯罪人の烙印を押されて鞭打たれ、十字架に磔られ、その墓は生殺与奪権を握っているユダヤ教指導者たちによって封印され、番兵が立てられていました。その墓に近づくことは命の危険に及ぶ行為であったのですね。しかし、それでも婦人達は墓に向かったのです!これはすごい勇気、いや、ラザロの姉妹マリアが、弟ラザロを死から甦らせてくださったことへの感謝から高価なナルドの香油をイエス様に注ぎかけたように、婦人たちは、ただただイエス様に罪赦されたことへの感謝、そして信仰の恵みを心底に信じ、それが信仰による愛にまで高められ、命の危険を顧みず、イエス様の御遺体にせめて香油を塗ってさしあげたい、という献身になったのだと思わされます。

3月に入って、幾人かの方に声を掛けていただきましたが、信徒の友3月号、ちょうど受難節の主日の聖書解説と、日曜日の日毎の糧を書かせていただきました。以前は、ヨハネの黙示録の日毎の糧で、少々難解でしたが良き学びとなりました。今回も受難と、今朝の復活、大事な場面を深く学ぶ良い機会となりました。

今朝の解説と日毎の糧は、まさにこのメッセージの備えとなったわけですが、深き愛によって墓に向かった婦人たちですが、やはり、その心に不安、恐れはあったと思います。

そこで、今朝、もう一つ注目したいのは、「恐れることはない」という言葉ですね。5節、「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。』」この呼び掛けは、アブラハムに(創世記15:1)、ヤコブに(同26:24)、モーセに(民数記21:34)、その後継者ヨシュアに(ヨシュア記8:1)、後に勇者となるギデオンに(士師記6:23)呼び掛けられた、「恐れるな」とは、神の僕として、神の加護、神の救いを語り継ぐ者として重要な局面に必ず呼び掛けられる言葉です。そうですね。イエス様がお生まれになる時、救い主降誕の成就のため、天使がマリアとヨセフに「恐れることはない(マタイ1:20、ルカ1:30)と告げたことが想起されます。

どうなるんだろう、もうだめだろう、わたしたちは主の恵みと導きを信じて、おそれを締め出すところから、救い主を信じる信仰へと、そして、その救いを告げ知らせる福音宣教へ押し出されていくのです。

イエス様の両脇には重犯罪人が磔られていましたね。その真ん中にイエス様を磔たのです。それだけイエス様が犯罪人であることを印象づけるためです。それだけイエス様の近づくことは危険なことを教えるためです。しかし、婦人たちは、イエス様の墓に行ったのです。その婦人たちを、先ず天使が励まします。

そして、10節、なんと、これから彼女たちは、復活の第一証人となることができるように、復活の主イエス自ら『恐れることはない』と告げられたのでした。

今、この呼び掛けを、わたしたちが聞く番ですね。

さて、弟子たちはイエス様の墓に行くことができませんでした。恐れていたのです。では、どうして、恐れにかられていた弟子たちが、見事に死をも恐れぬ使徒となり、世界に福音を宣べ伝える者となることができたのでしょうか。それは、主の復活を証した婦人たちのお陰ですね。そして、何よりも、やはりイエス様の愛に満たされたからです。

イエス様は婦人達にこう言われました。「行って、わたしの【兄弟たち】にガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と命じられたのです。

わたしの兄弟たち!

十字架を前に逃げてしまった、そしてイエス様のお墓にも行けない、そんな弟子たちを、わたしの兄弟と呼んで下さるんです。

この何があっても変わることのないイエスの愛、神の愛によって弟子たちは、主の器へと造り代えられていったのです。できないことを叱ったり、責めたりではない。愛するのです。そして、さらには、この後、弟子達はイエス様の愛に加えて聖霊をも注がれます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。主の選びは誠に不変なのです。主は私たちに永遠の命を与え、その祝福を一人でも多くの人に宣べ伝えるように、全ての力を与えて下さいます。

教会は主の復活を告げ知らせるためにありますが、その形は様々です。昨日は、子どもニコニコレストランが開催されました。教会を、ミッションホールを活用して、地域に奉仕する、地域と交流する。これも一つの証です。週報記載の通り、教会員、子どもの教会のメンバーをはじめ、関東学院中高のインターアクト部の生徒さん、さらに横浜国際高校の生徒さん、南太田小の子どもたちに卒園児、清水ヶ丘ケアプラザ、南太田キッズクラブ、本当に沢山の方々が来会くださり、手伝ってくださいました。

調理を担当してくださった方々、給仕係をしてくださった方々、本当にありがたいことです。

また、うれしかったのは、会が終わって、事務室で週報を作っていましたら、関東学院の高校生の生徒が、「中島先生、聖書の授業、楽しかったです!」と元気に言ってくれたんですね。うれしかったです。

今日は、イースターです。イースターエッグの奉仕にも感謝いたします。朝、墓苑にて主の復活を教会員、子どもたちと共に「ハレルヤ!」と宣言しました。そして、今日、一人の兄弟が、主の復活、主の愛を信じ、受洗されます。本当に感謝なことです。皆さんが受難節の間、そして受難週の早天祈祷会、本当によく祈ってくださいました。感謝です。

主の愛による教会、奉仕は、福音の香りとして世に広がっていくのですね。主が、恐れることはない、わたしの復活を、永遠の命を宣べ伝えてくれないかと呼び掛けておられます。

今わたしたちは、わたしたちを選び、愛してやまない、救い主イエス・キリストを仰ぎ見て、喜びをもって、新たな福音伝道に仕えて参りましょう。ハレルヤ!中島 聡牧師