みことばの糧1233

『救い主を礼拝する恵み』

ヨハネによる福音書 9章1~12節
 「生まれつきの盲人をいやす」イエス様から礼拝の恵みを学びます。「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』」(2節)。
ヨハネ福音書におけるこの奇跡は、一見、弟子たちの「因果応報」説から始まっているように思えます。本人であれ、両親であれ、とにかく目が見えない原因は、当時では「罪」と断定されてしまっていたことが分かります。それが間違いであることは『ヨブ記』を読めば一目瞭然です。
 この奇跡の場所は神殿の近くと読み取れます。当時、神殿の近くには様々な病による困窮から、「物乞い」をしなければならない人が大勢いました(ヨハネ5:2-3)。目の見えない人がいることも珍しいことではありません。
 しかし、1節、「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」。何も珍しくない盲人を「見かけられた」-、これはちらっと見たのではなく、イエス様が目線を留められたのです。 
 ですから弟子たちも、盲人に目を留め、「質問」したのです。ただし、これは「死んだら肉体はどうなるのだろうか?」の類で、なにも「本気」でその人のことを心配してのことではありません。「この人はどうなっていくんだろう?この人にどうしてあげたらいいんだろう?」-、そう思っていたら、冒頭の質問など、全く無意味であることが分かります。
 この時、イエス様はユダヤ教指導者たちから、石を投げつけられようとしており、悠長なことをしている場合ではありません。しかし、イエス様は、その人のために、弟子たちを教えるために「目を留められた」のです。
 エリコの近くでの盲人の癒しでは、イエス様が「立ち止まった」ことが強調されています(マタイ20:32、マルコ10:49、ルカ18:40)。 通り過ぎるか、或いは話題の一つにされてしまう病-、イエス様は見つめ、立ち止まり、癒されました。この御方が私たちの礼拝する救い主です。感謝です。2025年、私たちもこの主の御姿をこの世に宣べ伝えるために献げ、仕えて参りましょう。 ハレルヤ!

中島 聡牧師