みことばの糧1240

『その水をください』

ヨハネによる福音書4:4~18

私たちの礼拝において、そこに居られる神様をこの目で見ることはありません。けれども、御言葉を通して、神と私たち一人一人の人格の交わりがそこにはあるのです。
礼拝の度ごとに、私たちはサマリアの女のように主と顔と顔を合わせて、主が私たちのために成し遂げてくださった救いの御業を聞きます。
主の十字架上における最後の御言葉は「渇く」と「成し遂げられた」です。まさしく、十字架の上で私たちの「渇き」をご自身のものとして下さったのです。そして、「成し遂げられた」と十字架に死んでくださった主は、私たち一人一人の救いのために、罪人で、信仰無き者のために救いを成し遂げてくださったのです。
この救いの御言葉を、礼拝で、何度でも繰り返し私たちは聞くことによって、主イエス・キリストが救い主であることを知ってゆくのです。主は、このことを「生きた水を与える」と言われているのです。救いの御言葉を、礼拝の度に、何度でも繰り返して聞くこと、それは、目には見えなくてもそこおられる主から、与えられる救いの御言葉なのです。救いを成し遂げてくださった主イエス・キリストから、頂く「生きた水」なのです。「渇き」ある私たちの現状に、主が与えてくださる「生きた水」が湧き水となって、永遠の命へと湧き出る水の泉となるのです。「永遠の命へと湧き出る水の泉」とは、主イエス・キリストを救い主、それは主イエスを永遠の命の君として信頼する、生き生きとした瑞々しい私たちの現状を指しているのです。
私たちは、礼拝で、何度でも繰り返して、主イエスが、私たちのために成し遂げてくださった救いの御言葉を聞くことによって、主イエス・キリストが救い主であること、そのことを主がお語りくださっていることが分かって来るのです。イエス様は重ねて、何度でも、何度でも、「あなたの人生に関わり、あなたを救う神に、ただ信頼せよ!」と、ねんごろに語っておられるのです。この主を、兄弟姉妹と共に救い主として礼拝するのです。その礼拝に生かされることによって、私たちは喜びに満たされるのです。

江口裕子牧師(横浜菊名教会