『神の国の命の水』
ヨハネの黙示録21:1~8
イエス様の譬えを通して「天の国」について学んできました。「王子の婚宴」、「十人のおとめ」、「タラントン」、いずれにおいても、第一は、全ての人が天の国に招かれているということです。
これがどんなに大きな恵み、恩寵であることでしょうか。
第二に、残念ながら、「礼服を着てこなかった」、「油の備えが無かった」、「タラントンを土に埋めた」、天の国に入れない人がいる、ということです。ここで、自分が入れるように備えをすること、洗礼を受けることが大切ですが、もっと大切なことは、すべての人が天の国に入れるように、自分を献げることです。
神の御子、イエス・キリストが、天の国について教えるだけではなく、御自身を十字架に献げられたからです。
聖書には、天の国は、「もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない」、「命の水の泉から価なしに飲む」ことができるとあります。
また、黙示録22章には、「命の水の川」があり、「その両岸には命の木」があり、その「木の葉は諸国の民の病を治す」とあります。
その反対の「火と硫黄の燃える池」、「第二の死」、地獄、陰府はとてつもない絶望と恐れに満ちています。しかしながら、繰り返しますが、真の信仰とは自分が「地獄に行きたくない」ではなく、「隣人を天の国に招いてあげたい」なのです。
イエス様は、神の御子でありながら、人の子としてお生まれになりました。私達を天の国に招くためです。ですから、イエス様は福音宣教にあたって、開口一番、「悔い改めよ、天の国(神の国)は近づいた」と言われたのです(マタイ4:17、マルコ1:15)。
そして、救いについて説き明かしながらも、ひたすらに病の癒しの奇跡を行われました。悲しみ、嘆きのない、病が癒されるのが「天の国」だからです。イエス様は天の国の支配者であり、その玉座に座される方です。しかし、私たちを「天の国」に招くために最も小さい者、最も低い者となられたのです。
天の国に入れない者の筆頭は、不信仰ではなく、「臆病な者」となっています。誰もが、なんか恐い、という感情を持っています。それが注意深さ、慎重さを生み、安全を得ることができます。しかし、臆病とは、すべてが安全である、恵まれた状態にあるにもかかわらず、心の内に「わたしにはできない」を生み出してしまう「病」です。
イエス様は、救い主であり、完全なる癒し主です。天上の「命の水」、その雛形を注がれる日、洗礼の日を共に祈り求めてまいりましょう。ハレルヤ!
中島 聡牧師