みことばの糧1265

『信仰による知恵』

列王記上3:10~15
 キリスト教では、人生の出来事や人との出会いは神の御計画によるものであると信じ、神との関係性を最も重要視します。そのことは、ソロモン王の物語にも表れています。彼は神様に対して謙虚に「賢明な心」、すなわち他者を理解し共感する知恵を求めました。これは単なる知識ではなく、神様の視点に立った判断力であり、神様はその姿勢を喜び、知恵と共に富や栄光も与えられました。私たちは他民族、国家、文化、歴史など知識として学ぶことはあります。しかし、その得た知識は自己満足で終わっていないでしょうか。ソロモンは民を裁くとき、知識や先人たちが残してきたトーラーだけを参考にするだけでなく、他者の痛みに寄り添う想像力を含む知恵を求めたのです。
 夢の後、ソロモンは「焼き尽くす捧げもの」だけでなく、「和解の捧げもの」も捧げます。これは脂肪の部分だけ祭壇で焼き、肉は祭儀参加者が分けて食べる聖餐儀礼です。この和解という訳は原語のシェラミームが平和や平安と言ったシャロームの語と関連しています。聖書が語る「シャローム」は社会全体において一人一人の命と尊厳が守られ、充実した命の営みを言います。つまり、シャロームと言う語は「平和」だけでなく、「幸運」「健康」「繁栄」も意味し、これらは神様とのかかわりの中で育まれるものとされています。ですから、和解の捧げものを通して、神との関係を確認し、神様から与えられた恵みを感謝し、その約束をソロモンは家臣に共有し、共に祝ったのでした。そのような行いは結果として人々にシャローム・平和、いのちの豊かさにつながっていったのです。
 イエス・キリストは、弱くされた者に寄り添い、憐れみをもって接されました。その憐れみは深い共感と痛みの共有であり、私たちもその愛に倣い、他者を神の視点で見て、シャローム(平和といのちの豊かさ)をもたらす存在となるよう召されています。信仰は知識を超え、神の愛に根差した生き方であるのです。

田中尚美牧師