『心を動かされる主』
エステル記8:3~8
エステル記からは神さまの摂理の業を感じずにはいられません。けれどもエステル記のどこにも「神さま」という言葉は出てきません。それどころか、「祈り」であるとか「信仰」という言葉も出てこないのです。
しかし、神さまの御手の業がはっきりと見えます。エステルが同胞を救うため王に願うことを一晩延ばしたことも、その夜眠れなかった王が家来に読ませた記録書に、かつて王の暗殺計画を防いだモルデカイの記録があり、王が彼に褒賞を与えたいと思ったことも、これらの出来事、人の体調や感情の微妙な移り具合の中にも神さまの御手が見えます。
かたやハマンは、今まで全て自分の思い通りに事は進んでいましたが、一つの綻びがだんだんと大きくなり、哀れな末路をたどります。ハマンの姿からは、真の神さまを我が神として認めないものの愚かさを示されます。この世を造られ天地万物を統べ治めておられる神さまを認めないで歩むのは、実に愚かなことなのです。
ハマンは、自分こそが正しく、自分の地位を利用して思い通りにユダヤ人の滅亡を計れる、と考えていました。けれども彼は、真の神さまがおられ正しい裁きを行われる事を知らなかったのです。
彼の妻と友人は「モルデカイはユダヤ人の血筋の者で、その前で落ち目になりだしたら、あなたにはもう勝ち目はなく、あなたはその前でただ落ちぶれるだけです。」(エステル6:13)と告白しています。この言葉からは、その背後に真の神さまがいるのを知っていたことが読み取れます。敵の画策まで逆手にとって大逆転に導かれる神さまは、すべてのことを導いて益としてくださるのです。
私の献身の聖句でもあり、生涯を通しての聖句でもありますが、ローマの信徒への手紙8:28です。そこには「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とあります。聖書全体を通して貫かれているテーマ、メッセージの一つは「神さまが最善に導いてくださる」ということです。神さまの最善の導きに期待して歩みましょう。ハレルヤ!
片平貴宣牧師