『主の御心に適う教会』
マタイによる福音書21:12~17
「神殿清め」と言われる出来事に学びます。四福音書に共通しており、弟子たちの心に深く残っていたことが分かります。
「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と預言の通り、エルサレムに入城されたイエス様が、一転、縄を鞭代わりにふるい、生け贄の動物などを売り買いしていた者たちや両替人の台、椅子を倒して、神殿から追い出されたのでした。
「山上の説教」の第三で「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と語られたイエス様とは信じ難いのですが、生け贄の動物を使い回して売る、両替の差額で利ざやを稼ぐ、もはや「強盗の巣」のような状態だったからです。それほどまでに当時の指導者、神殿が神の御心からかけ離れてしまっていたのです。
神の救いはすべての人にもたらされねばならないのに、いつの間にかまるで特権のようになってしまっていたのです。そこでイエス様は、これらの人々が永遠の裁きに陥ることのないように、あえて鞭をふるい、神殿は「祈りの家」でなければならない、と悔い改めを促されたのですが、残念ながら、彼らはイエス様を十字架に架けて殺す決意を一層固めたのでした。
神殿の中で堂々と居座っていた商人たちが消え去ると、そこに目の見えない人や、足の不自由な人たちがやってきました。普段は神殿の中に入ることはできずに、入り口の門の手前で物乞いをしていた人たちです。そして、イエス様はその人たちを癒されました。そして、子どもたちが「ホサナ!」とイエス様を誉め讃えました。
神殿とは何か、どのようにあるべきかは一目瞭然です。
しかし、神殿清めから私たちが学ぶべきは、イエス様による裁きではありません。罪は正されねばなりませんが、この宗教指導者たちの罪の赦しと救いのためにもイエス様は十字架に架かってくださったということです。
彼らは「十字架から飛び降りてみろ!」と罵りましたが、イエス様は十字架の死を全うされ、御自身を生け贄として献げ尽くされました。すべての人に永遠の命を与えるためです。受難節、この神の愛、御子キリストの愛を宣べ伝えて参りましょう。ハレルヤ!
中島 聡牧師