『僕に仕える僕こそ主』
ヨハネによる福音書13:1~11
イエス様による「洗足」の教えに学びます。イエス様はエルサレム入城の後、神殿清めをされました。それは神殿をすべての人の救いのための「祈りの家」に戻すために必要なことでした。
そして、最後の晩餐に先立って、弟子たちの足を洗い始められました。それは下僕が為すべきことだったので、弟子たちは大変驚きました。
なぜ、イエス様はそこまでされたのでしょうか?それは、「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」から、いよいよ僕が主人を裏切る時が来たから、とあります。
普通ならば、裏切りが発覚したのですから、その僕を裁くところですが、イエス様は洗足の直前に「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(12:47)と言われた通りにされました(*ヨハネ3:17も参照)。
悪魔も聖書に“精通”しています。「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が威張ってわたしを足げにします。」(詩編41:10)、きっとイエス様にも囁きかけていたことでしょう。
しかし、イエス様は今から自分を足げにしようとする足、裏切って逃げて行こうとする足を、その足下に跪いて、その手で洗われました。裏切りの罪を洗い流しておられるのです。そして「必ず、この足でわたしのもとに帰ってくるように」と祈りを込めて洗っておられるのです。
なぜすべての人に救いがもたらされることになったのか。それは神の御子が、本来御自身の僕であるべき私たちに仕える僕となってくださったからです。その足を洗い、自分の命を献げるまでの僕になってくださったからです。信仰を持つ
とは、伝道するとはどういうことかが記されています。
ヨハネの弟子たちは、ヨハネがイエス様の愛についてしか説教しなかったので、「他の説教をしてください」と言いました。ヨハネは「あなたがたが本当にイエス様の愛を理解して実践できるようになったら、他の説教をしよう」と言いました。洗足に先立って「イエスは弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。礼拝は救いを与えられ、救いをもたらすためにあります。静かに真の説教に心を傾け、福音宣教に仕えて参りましょう。ハレルヤ!
中島 聡牧師