『主から恵みを受ける』
ヨハネによる福音書15:1~5
「わたしはまことのぶどうの木。」聖書には古くからぶどうが登場します。ノアが箱舟から下船後に、喜びのあまりにぶどう酒を飲み過ぎてしまったのは有名です(創世記9:21)。
ぶどうは主の祝福のしるしであり、「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました」(詩編80:9)、神の民であるイスラエルを現すもの、救いのしるしでした。
また、「ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19:10)、隣人愛を大切にされる主の御心のしるしでもありました。
そして、「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者にこれらすべてのものを受け継がせる。」(ゼカリヤ書8:12)、祝福に満ちた預言のしるしでもありました。
主は、祝福を、わたしたちへの愛を込めて“ぶどう”を与えてくださいました。であるからこそ、受難節の中、「ぶどう園の農夫の譬え」に、一層心が痛みます。
主はイスラエルに救いの御業を託されたましたが、残念ながら神の王国を失い、今また神殿を「強盗の巣」にしてしまいました。主人はなんとかして助けようと預言者を送り続けましたが、「袋だたきにして殺してしまった」とあります。遂に、主人は「愛する息子」を送ることにしましたが、なんと「跡取り息子だ、これを殺せば、相続財産は我々のものになる」(マタイ21:38、マルコ12:7、ルカ20:14)と彼をも殺してしまいました。十字架刑の預言です。
イエス様は、祝福と愛を仇で返した人のためにも十字架に架かられました。その背後にいる悪魔に勝利し、すべての人を永遠の命に招くためです。
「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」(詩編118:22)。十字架は遙かなる時から預言され、主がずっと私たちを愛して下さっておられることが分かります。
「今日こそ主の御業の日(十字架の日)。今日を喜び祝い、喜び躍ろう」(同上118:24)。十字架という受難、遜りの極致こそが「主の御業」なのです。永遠の命の御救いは、この主の愛、主の献身によって私達に与えられたのです。福音の種は献身、奉仕によって蒔かれます。主の御跡に従い、救いの種を蒔いて参りましょう。ハレルヤ!
中島 聡牧師