みことばの糧1313

『罪を赦す奇跡』

ルカによる福音書5:21~26 
  レビ、またの名をマタイという人を弟子に招かれるイエス様に学びます。マタイ、マルコ、ルカ福音書では、いずれも四人の漁師を弟子にされた後、十二弟子を招集する前にこの弟子が招かれたと記録しています。漁師の次は、徴税人であったのです。
 漁師は、当時、宗教指導者として召し出されることはありませんでした。そもそも祭司はレビ族と定められていましたし、律法学者、会堂長、長老になることなどあり得ませんでした。
しかし、イエス様はすでに数え切れないほどの人たちが教えを慕って集まって来ている中で、漁師のペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを最初に弟子に選ばれたのです。そして、その次が、当時では「罪人」と位置づけられていた徴税人であったのです。
そして、そのような福音宣教の姿勢に対して、ファリサイ派や律法学者たちが、「なぜ罪人と一緒に食事をするのか」と批判しました。当時では当たり前の当然のことでした。
しかし、イエス様は言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
有り難いことですが、自らの病めるところ、罪の自覚が無い人からすれば、意味の無いことになります。
福音、救い、信仰は誰のためにあるのでしょうか。もちろん、すべての人のためにあります。しかし、繰り返しますが、罪の自覚が無ければ信仰に入ることはできない、となります。ぐるぐる迷路のようですが、イエス様は語りかけておられます。「では、あなたはどうしますか?」
 イエス様は、漁師を、そして徴税人を弟子に招かれました。究極、イスカリオテのユダを十二弟子に選ばれました。そして、その弟子たちのために十字架に架かられました。ここに信仰の真髄があると教えられます。
 この後、弟子たちは殉教者となるまでに福音を宣べ伝える者となりました。また、ユダヤ教の人々も多くの人々が信仰者となりました。復活を見たから、という人も沢山いたと思います。しかし、さらに多くは、イエス・キリストの愛に触れたからでした。
 福音宣教は一筋縄ではどうにもなりません。教理でもシステムでもありません。どれだけ、「仕えられる者ではなく、仕える者」になるか、イエス様の愛に満たされ、感謝と喜びをもって自分にできることを見いだしていくことと示されます。新しい1週間、主の僕として歩めますように祈りましょう。ハレルヤ!

中島 聡牧師