みことばの糧1314

『何を願っているのか』 

マルコによる福音書10:32~45 
 人はその短い人生において色々なものを願い、欲する。
2026年3月に日米首脳会談及びトランプ大統領主催の夕食会が行われた。夕食会の席には各々の願いや要求を抱いた日本初の女性首相や米国に巨額投資を行った実業家が列席していた。「人の本性には欲がまみれている」という。それをまざまざと見せつけられた思いがした。
イエスは王都エルサレムへ上って行かれた。イエスはエルサレムにおける自身の十字架刑による受難の死と死からの復活を覚悟する様にでも無く、怯える様にでも無く、繰り返し予告した。だが、イエスの弟子たちは不安を抱いきつつも、己が願いの果たされることを望むばかりであった。イエスが重用した2人の弟子(ゼベダイの子ヤコブとヨハネ)はイエスの山上の変貌の姿に強烈な影響を受けたためか、自分たちの栄達を願い出、シモン・ペトロはイエスの受難回避を諫言しているのである。
しかし、イエスはゲッセマネの園で自分自身をして、全ての人々の罪の贖いの業を成し遂げられるだろうか、という責務・重圧に対する謙虚さから苦悶の祈りを発せられた。
イエスはイエスについて来たい者に対し「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とか「わたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と述べている。「自分の十字架」や「イエスの飲む杯、受ける洗礼」とは何を意味するのだろうか。
「自分の十字架」とは各自の身体の維持に伴う人生(生老病死)から生じる苦悩を指すのではない。その人に与えられているイエスの十字架による死からの救い(復活と永遠の命の授与と神の国への入国)を意味するのである。また、「イエスが飲む杯や受ける洗礼」とはイエスによる各人への愛の大きさを深く味わい知るということなのである(エフェソの信徒への手紙3:16~19「3:16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、3:17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。3:18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、3:19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」)。私たちには人の救いを成し遂げられた主イエスが与えられている、それを感謝したい。

杉本 泉牧師(横浜岡村教会)