みことばの糧1317

『悔い改めの実』 

ダニエル書9:1~9
宗教が戦争を助長しています。今朝は、戦争と国家的な偶像礼拝の歴史を覚え、「悔い改めの実」と題してダニエル書から学びます。晩年のダニエルは、バビロン捕囚が70年で終わることをエレミヤの預言から知ります。ダニエルが15歳で捕囚されたとするともう80歳くらいです。
エレミヤ書25章には、バビロン捕囚の原因として神を畏れながらほかの神を礼拝していたことが記されています。神を愛すること(申命記6章5節)への背きです。エレミヤ書22章には、不正義を行い、貧しい人を助けなかったことが記されています。隣人を愛すること(レビ19章18節)における背きです。神を愛し隣人を愛することに背き続けたことへの裁きがバビロン捕囚でした。ところがエレミヤ書29章には、やがての回復も預言されていました。バビロン捕囚がもうすぐ終わることを知ったダニエルは、神のあわれみの中で悔い改めます(3~5節)。世代的にダニエルに責任があるでしょうか? 神に背いたのは彼らの父祖たちでした。しかし、彼は先祖たちの罪を自らのものとして告白します。世代を超えた神の民の一体性を教えられるところです。注意して見ると、彼らの悔い改めはくり返しひとつのことに集中してゆきます(5~6節)。それは神のことばに背いたことでした。
子どもの頃、勇気ある少年たちの信仰の物語としてダニエル書を読みました。しかし、バビロン捕囚の意味を知り、9章の祈りを読むことで、別の見方をするようになりました。ダニエルと3人の少年たちが、律法に従って「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心」したのは、悔い改めの実でした。ネブカドネツァルがドラの平野に60アンマの金の像を立て、角笛、横笛、様々な鳴り物を鳴らし、「ひれ伏して拝め」と命じ、従わなければ火の燃える炉に投げ込むと国民儀礼を強要した時、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは言いました。3章18節「わたしたちは王様の神々には仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」。ダニエルは、老年になり3人の大臣の一人となった頃、律法に従う信仰を口実に訴えられ、獅子の穴に投げ込まれたのでした。9章の祈りはこの頃のものです。ダニエルが70年近い歳月を過ごしながら、神の裁きを覚え、悔い改めを深めていたのです。(7~9節。)
私は牧師となって41年、ダニエルの祈りを日本の教会の悔い改めの祈りとして祈ってきました。日本の教会は、神社参拝は偶像礼拝であると知っていました。しかし、アジア・太平洋戦争の15年間、まことの神以外のものを神としてはならないという信仰を貫くことができませんでした。
1941年に成立した日本基督教団は、教団規則第七条「生活綱領」において、「皇国の道に従いて信仰に徹し、各其分を尽くして皇運を扶翼し奉るべし」と表明しました。教団統理の富田満は伊勢神宮に参拝して新教団の発足を報告し、その発展を希願しました。日本の教会はバアルに膝を屈めたのです。
1946年6月28日、第90回帝国議会衆議院本会議において田中耕太郎文部大臣は、「軍国主義、侵略主義から、民主主義、平和主義の方向への宗教的コンヴァーション」を語り、議場には拍手が起こります。これを忘れるのではなく、神の前に深める私たちでありたいと思います。17~19節の祈りを、私達の祈りとして祈りましょう。

山口陽一牧師