みことばの糧1325

『信仰による献身』

創世記22:1~5
 イサクの奉献に学びます。せっかく与えられた一人息子を生け贄として捧げよ、とはなんという厳しい言葉でしょうか。しかし、アブラハムは、一時は世継ぎとして与えられたイシュマエルを荒れ地に追いやって、その命を捨てようとしたのですから、そのことへの戒めも込められていたのかもしれません。
アブラハムはイスラエル民族の祖、族長となりましたが、それは「祝福の源、祝福の基」ということであり、その祝福とは自分で勝手にその対象、その範囲を決めてよいものではなく、すべての人を祝福することが求められているのです。
アブラハムはイサクをささげるために三日の道程を歩き、モリヤの地の山に到着しました。アブラハムは供の若者二人を麓に残し、イサクと二人で山に登りました。イサクに薪を背負わせ、自らは火と刃物を持ち、しかし、生け贄にする子羊はありませんでした。さすがにイサクが尋ねます。「焼き尽くす献げ物にする子羊はどこにいるのですか。」
アブラハムは「きっと神が備えてくださる」と答えましたが、不穏な、凍りついた空気であったことでしょう。そして、山頂に着くや、縛りあげられ、薪の上に載せられた時、イサクの悲痛さはいかばかりであったかと思わされます。
大変な試練でしたが、神様はアブラハムの信仰を見て、剣が振り降ろされようとする、すんでのところで、御使いを遣わして救いの手を差し伸べられました。そして、イサクの代わりに一匹の雄羊が捧げられることになったのです。
 神様はアブラハムを赦してくださり、イシュマエルを助けてくださり、そして、イサクも助けてくださり、約束された祝福を継がせてくださったのです。
私たちも神様から与えられた祝福を恣意的、自分本位に捉えることなく、門を開いて迎え入れ、また門より出て、御言葉、救いの種を蒔いていかねばなりません。
イエス・キリストは、その身を十字架に釘付けられ、そして、無情にも振りかざされた槍は止められることなく、その脇腹を突き刺しました。身代わりは備えられず、私たちの全ての罪を贖いとるために生け贄として献げられました。
 この愛に応えて、私たちは自らを献げていきます。そのためには祈りが大切です。また聖書、神の言葉を読み、示されることが大切です。それぞれ自らに与えられている賜物を用いて、神様が約束してくださった永遠の命の祝福をこの地に宣べ伝えて参りましょう。   ハレルヤ!

中島 聡牧師