みことばの糧1177

『イエス誕生の預言』

ルカによる福音書1章26~38節 新約聖書 p.100

アドベント第2の主日を迎えました。教会に、リースをはじめ、沢山の美しい飾り付けをしていただき、感謝いたします。また、イルミネーションも点灯し、道行く人、京急の車窓からも、教会をお知らせすることができ、感謝いたします。クリスマスが近づいて参りましたが、先週も、教会は、様々な伝道、また社会奉仕に仕えることが許されましたことを感謝いたします。

キリスト教保育連盟神奈川部会のクリスマス礼拝は毎年、この礼拝堂において捧げられており、150名にのぼるキリスト教幼稚園の先生方が一堂に会する礼拝に仕えることができますのは感謝なことです。

また、横浜刑務所のクリスマス礼拝におけるゴスペル賛美があり、ミッションホールでは、こどもニコニコレストランが好天にも恵まれ、本当に沢山の来場をいただきました。お手伝いをくださった、教会員の方々、子どもの教会のこどもたち、白百合の卒園児、さらに南太田小学校から生徒さんが大勢、お手伝いに来てくださいました。オーダー聞き、ウェイターさん、ウェイトレスさん、食器の洗い場、本当によく頑張ってくださいました。

美味しいカレーが振る舞われ、そのための食材の買い出し、早朝からの調理のお陰で、ミッションホールに楽しそうな会話、談笑が溢れ、本当に感謝なのことでありました。その中で、アンサンブルシオンの方々がクリスマスソングを届けて下さり、また、みなさんが持ち寄ってくださった松ぼっくりを使ってのミニツリー作りがありですね、また、公益社団法人「フードバンクかながわ」から提供を受けたものの活用など、本当に教会と地域が繋がって、良き奉仕に仕えることができましたことを感謝いたします。私たちは様々な方法で福音を、クリスマスの出来事を伝えて参ります。

今朝は、四福音書中、マタイとルカに記されているイエス・キリストの御降誕を通して、その歴史的経緯、また、マタイとルカの違いを通して、キリストの降誕に込められている恵み、おどろくばかりの恵みを受け取って参りたいと願います。主の御名を誉め讃え、御言葉の恩寵に与って参りましょう。みなさん、ハレルヤ!

今、申しました通り、マタイとルカが、キリストの降誕の出来事を記しています。これは、キリスト教にとって、とてつもなく重要な出来事であり、本来は、四福音書全てに残されて然るべきと、誰もが思うところですが、マルコ福音書などは、ただ一言「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記して、すぐにバプテスマのヨハネの宣教を記し、次にイエス様の受洗の場面、公生涯のスタートまで全てを割愛しています。

ヨハネは降誕の出来事には触れていませんが、キリストを「ロゴス、言・命・光」として、天地創造の前に遡ってキリストがおられたこと、キリストは父なる神と一体なる神でありながら、この世に御降誕になられたことから書き記しています(「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ヨハネ1:1)。そして、バプテスマのヨハネを「光について証をするため」、「すべての人が彼によって信じるようになるため」神から遣わされた人と記しています(同1:6-8)。

マルコとヨハネで全く異なる福音の表現がなされているわけです。マタイとルカの違いですが、マタイはおもにヨセフへの預言と占星術の学者、いわゆる三人の博士の出来事を記し、ルカはマリアへの預言と羊飼いと天使の出来事を記しています。このように四福音書、それぞれに記述が異なっているのです。

これはそれぞれの福音書が担っている役割と言ってもいいかもしれませんが、これらの違いは、四福音書の編者が出会えた伝承者の違いによるものです。

ルカ福音書の1:1-2、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」、中心的には十二弟子、あるいは七十二弟子、使徒たちですね。それぞれ、イエス様と直接出会い、宣教活動を共にしていた人たちです。その内の誰かから、聞き伝えられた話を、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが、まとめ、書き記していったわけです。

ところで、降誕時の出来事については、イエス様御自身というよりも、むしろ母マリアが一番の伝承者となります。父ヨセフは残念ながら亡くなっていますので。私は、さらに、母マリアと親しく話すことができた婦人たちからの伝承がある、そう言わなければならないと考えています。マタイ27:55,「この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。」

ガリラヤから、すなわち、最初期から、マタイ27章はイエス様の十字架の場面ですから、最後の最後まで婦人たちがつき従っていたことを知らされます。彼女たちは、最初のガリラヤから、イエス様の十字架にあっても離れることがなかった信仰に満ちた“勇者”であり、伝承者であった、後には、まさに伝道者であったに違いありません。

マタイとルカは、イエス様の御降誕の様を詳しく伝え聞くことができた人たちであり、神様によって「これを書き記せ」と導かれた人たちなのです。

では、ルカによる降誕時の出来事についてですが、救い主の母として、聖書では「おとめ」と表記されているマリアが選ばれました。これは、先主日とは逆の意味で信仰の始まりに、神の大いなる御業が現されるのに年齢は関係がない、ということ顕しにしています。若いということで軽んじられてはならない。大切なことです。

今、一人のおとめに、旧約時代からの、天の父なる神の救いの計画のすべてが委ねられ、託されようとしているのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、荒野の四十年、サウル、ダビデ、ソロモン、イスラエル王国、すべてを失ってしまったが、それでも、救いの計画を、これっぽっちも、みじんも弱められない神は、遂に神の御子をこの世にお遣わしになったのです。

イザヤ書9章5節「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」 エレミヤ書33章15節「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。」と預言された、御子イエス・キリストが、マリアによって誕生するのです。

大天使ガブリエルによってではなく、一人のおとめが、神の救いの計画に選ばれた、言うなれば、神が選ばれれば、すべての人が大いなる神の御業を現す者となる、ということです。

「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」確かに「主があなたと共におられる」という最大の祝福、キリストがあなたと共にあるという最高の祝福はマリアに与えられました。しかし、皆さん、この祝福は、同時に、我々、わたしたち、すべての人への祝福であるのですね。マリアだけではないのです。

マタイ1:23「その名はインマヌエル、神は我々と共におられる」とあるのです。「恵まれた方、おめでとう、主があなたと共におられます。」は、我々、わたしたちへの恵みなのです。

この恵みに満たされているので、私たちは恐れることはないのです。もちろん年齢によらず、その時、その時にできる福音伝道があるのです。みんなのために祈りを捧げる、という尊い奉仕があるのです。

私たちが、クリスマスを祝うとは、神の御子の降誕という大いなる御業、それはわたしのためであったのだ、わたしはこの祝福に与っているのだ、という喜びに満ちることです。まさにこれこそが信仰なのですね。

横浜刑務所のクリスマス礼拝における賛美は大切な奉仕であったと思わされています。お受けするに当たっては、様々な思いもありました。しかし、そのような中、後押しをしてくれたのは、私たち清水ヶ丘教会員のお一人の方のお父様が、刑務所における処遇改善に信仰をもって全力を尽くされた、生涯をかけて取り組まれた、という事実です。刑務所における医療、また終末期の緩和、ホスピスについて尽力されたのです。大げさではなく、これまで、この国に無かったことを成し遂げられたんですね。

反対も多かったんです。なぜ、受刑者にそこまで。しかし、キリストの愛に立つのならば、クリスマスは真実であったと信じるならば、そうせざるを得なかったのだと思うのです。その結果、「人事院総裁賞」(多年にわたる不断の努力や国民生活の向上への顕著な功績等により、公務の信頼を高めることに寄与したと認められる職員又は職域を顕彰するために設けられたもの)を受けられたわけです。

そう思いますと、賛美という奉仕、させていただけるだろうと。もちろんこれも、参加メンバー一同、大いに練習に練習を重ねました。アメイジング・グーレスの出だし、アだけでも、何回練習したことでしょうか。私も風呂場だろうが、どこだろうが、アメイジンググレイスを口ずさみ、当日は、朝5時から小声で練習し、臨みました。4曲の賛美が、その場におられた一人一人の心に届くことを祈ります。主は共におられる。主は私たちのために十字架に向かわれた。

それは、決して、死ではなく、十字架の先にあるものを見つめて、歩まれた。自身が十字架にかかることによって、それは筆舌に尽くせぬ苦しみであるけれども、皆から罵詈雑言を浴びせられる、しかし、その先に、罪赦された私たちの喜び、私たちを天へと導くことができる喜びを見つめて、十字架に向かわれた。賛美を通しての福音が届けられることを切に祈ります。

アドベントの中、一人一人に示された伝道の業が成し遂げられますように祈り、救い主の御降誕を宣べ伝えて参りましょう。

ハレルヤ! 中島 聡牧師