みことばの糧 1176

『ヨハネ誕生の預言』

ルカによる福音書1章1~14節 新約聖書 p.99

いよいよ待降節、イエス・キリストの御降誕を待ち望む、アドベントの時となりました。教会にとっては喜びの時でありますが、残念ながらイスラエルとパレスチナの停戦は終戦に至りませんでした。

ウクライナにおける戦争はいまなお続いています。アフガニスタンは200万人の難民を抱え、アフリカ・スーダン、シリア、ソマリヤ、世界の紛争、内乱は激化しています。そのような中、私たちのこの教会における礼拝、アドベントを迎えての礼拝が何をもたらすのか。今朝の御言葉は私たちの信仰をいかに導くものであるのか。まさに主に祈り求める他はないのです。主の御名を誉め讃え、御言葉の真理の導きに与って参りましょう。ハレルヤ!

ルカ福音書の冒頭を読みますと、新約聖書、福音書が何の目的のために、どのように書き残されたのかが、明確に記されています。1-2節「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」イエス・キリストの福音宣教については、当時、多くの人々が書き残そうとしていました。

新約聖書、当然ですが、とりわけ福音書はイエス・キリストが為した御業について書き残そうとされたものです。福音書、これをGospelと呼びますが、新約聖書が成立するにあたって、最初、ルカ福音書の一部のみを聖書とする動きがありました。最終的にカルタゴ教会会議(397年)において、現在の四福音書が正典(神の霊感、啓示によって書き残されたもの)として定められました。

福音書の中で、マルコ福音書が一番最初にまとめられましたが、正典性においては、ルカ福音書は最初に聖書と定められていたんですね。それは、ルカ福音書の献呈先である「テオフィロさま」(口語訳テオフィロ閣下)、ローマ帝国の高官に宛てて書かれているものであり、信憑性が高いわけです。別に身分の高い人に宛てて書いたから良いものというわけではありません。

しかし、続編の使徒言行録も同じくテオフィロさまに宛てて書かれていることと合わせて、すなわち、福音書が「ローマへの伝道」を意図していることが分かります。ここが大切なんですね。

それは、イエス・キリストの最後の宣教命令、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」に忠実に従おうとする弟子たちの熱意溢れる信仰が伝わります。当時、随一の国であるローマ帝国に向かってイエス・キリストの福音を宣べ伝えようとしている。この力強さ、キリストの命令に忠実なる弟子たちの存在が見えるのです。

頼もしいですね。十字架から逃げ出した弟子たちとは思えません。これが復活のキリストに出会って与えられた聖霊の力ですね。しかして、ルカはもちろん、マタイもマルコもヨハネも、キリストの福音を伝えるための福音書でありながら、その始まりは「バプテスマのヨハネ」であると、書き記しています。

ルカ福音書の書き出しは、献呈の言葉に続いて、洗礼者ヨハネの誕生を書き記していますね。マルコ福音書はもっと明確に分かり易い。1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。はっきり、福音の初まりは、バプテスマのヨハネである、と宣言しているのです。

では、この意図することは何か?それは、バプテスマのヨハネの誕生物語を読みますと、明らかに、「旧約聖書全体にわたる神の愛と導きをここに集約させて宣べ伝えよう」という信仰が示されているのです。

ヨハネの誕生を見て参りましょう。祭司ザカリアと妻エリサベトには、「子どもがなく、二人とも既に年をとっていた」、しかし、神の恩寵によってヨハネが与えられた!

このことは、明らかに神が高齢となっていたアブラハムとサラを祝福の基に選ばれたことに遡るものです。ヨハネ誕生の預言にあたって御使ガブリエルが、「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる」(1:14)と言いましたが、⇔ これは、「神はわたしに笑いをお与えになった」(創世記21:6)を対比するものであり、この神の祝福を継承するものであります。

もう望むべくもなかったアブラハムとサラ、ザカリヤとエリサベト、しかし、神は彼らを祝福し、大いなる御業を与えられました。ここに福音書の意図するところ、信仰のなんたるかが、記されています。

第一に、信仰とは、もちろんイエス・キリストによる福音でありますが、それはアブラハムに遡る父なる神、ずっとずっとイスラエルの民を愛し続け、選び続け、導き続けてくださった父なる神の愛を継承するものであること。

そして、神の、イエス・キリストの福音のメッセージが、バプテスマのヨハネから始まるということは、アブラハムとサラを旧約聖書をまとめるものとし、ザカリヤとエリサベトにそれらを継承させ、信仰とは何か、福音とは何か、を言いたい、伝えたいことはただ一つ。

信仰の始まりにおいて、あなたが神の祝福を受けるにあたって、あなたに大いなる神の御業が始まるのに、年齢は一切関係が無いということです。信仰に、神の御業に、「老い」は無い、ということです(「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」Ⅱコリント4:16)。

この一点だけでも会得することができれば、信仰はとてつもなく強くなる。弟子たちが福音書を書き記し、ローマであろうが立ち向かい、世界に福音を宣べ伝える者となったように。これが祝福を受けた者の力ですね。

ここで、しかして、その祝福とは、決してこの世的な御利益のことではありません。それは、少し、聖書を先に進めての話しになりますが、もう一つ、ヨハネに集約されている、継承されている部分を読めば明かです。

ヨハネは祭司ザカリヤの子であり、本来は神殿に仕える者となるはずでしたが、イエス・キリストの福音の道を備えるために、神殿ではなく荒野で生活し、ヨルダン川でバプテスマを授ける者となりました。皆を天の国、神の国に導くために、荒野で過ごし、最後は斬首となりましたね。イスラエルを神の約束の地に導くために、イスラエルの民を顧みることなく王家で過ごすこともできたのに、荒野の40年を背負い、しかも、自らは約束の地に入ることは許されなかった、荒野で生涯を終えたモーセの如くです。

このように、なぜキリストの福音の初まりにバプテスマのヨハネが置かれているのか、それは、旧約を背負うためであり、旧約の間に注がれてきた神の愛を伝えるためです。

私たちも、アドベント、キリストの降誕と福音を待ち望むにあたって、バプテスマのヨハネの誕生を通して、先ずもって、かくも注がれてきた神の愛の深さを想うべきこと。そして、キリストへの道を備えるために、自らの命を献げたヨハネの愛に倣って、アドベントとの伝道に、教会の一つ一つの奉仕に仕えていくべきことを示されるのです。一にも二にも、愛によって、献身の心によってです。

いよいよ、神の御子を迎える時です。神の御子は降誕の時から試練の只中にありました。昨日、子どもの教会の小麦クラスのクリスマス会が行われました。最初、少し参加者が少ないかな、と思っていたのですが、18名の子どもたちが集まってきました。そこには秋のバザーを行った結果、まるで白百合の同窓会のように集まってきた子どもたちが、クリスマス会にも行く!ということによるものでした。

この世界は混沌であり、試練も多くあります。しかし、私たちが、これまでに注がれてきた神の愛を知るならば、感謝を深めることができるなら、私たちはなおも福音の種を蒔き続けることができるのです。

「その子はあなたがたにとって、多くの人にとって喜びとなる」、アドベントを迎える私たちが、バプテスマのヨハネがわたしたちのためにも与えられたことを信じるならば、私たちはそれに続く者として強められるのです。信仰の初まりに年齢は関係がない、信仰には老いがないことを知るならば、わたしたちは、命の限り、主の弟子であることができるのです。

確かに世界は混沌であり、試練もあります。しかし、今、私たちは福音を宣べ伝えることができる時と力を与えられています。クリスマスの真の恵み、キリストによる救いを伝えて参りましょう。ハレルヤ!

中島 聡牧師