みことばの糧 1175

『いと深き主の赦し』

ルカによる福音書7章36~50節 新約聖書p.116

ある時、ファリサイ派のシモンが主イエスを食事へと招きました。その食事の席に罪深い女が紛れ込み、主イエスの足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、香油を塗ったというのです。

さてこのシモンに目を向ければ、彼は典型的なファリサイ派でした。彼はまず、主イエスの足を涙で濡らした女をさばきました。そしてその行いを許している主イエスをも心の中でさばきました。

そのようなシモンでも主イエスを食事に招待したのですから、ほんの少しでも求める心があったのでしょう。自分はファリサイ派として律法を守り、正しい行いをしている、と思っていたわけですから、少ない借金を赦してもらった者に彼はなぞらえられます。

主イエスのたとえ話にはほかにも、借金が赦された者が出てきます。それがマタイ18:21以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」です。そこで家来が赦された借金は、1万タラントンもの膨大な額でありました。

これが、私たちの受けた赦しです。自分ではどうがんばっても到底返すことのできない負債を、神さまが完全に赦してくださった、恩赦を与えてくださったのです。この恵みを忘れてしまうのなら、このシモンと同じ過ちを私たちも犯すことになるでしょう。

「自分は正しい、自分は赦される必要など無い」、という思いは、いつの間にか神さまを隅に追いやってしまうことになりかねません。そうなりますと当然、私たちは神さまから離れてしまうことになります。神さまが見えなくなってしまいます。

そうならないために必要なのは、この「罪深い女」のように、自分が罪深いものである、と知ることです。そして、自分の受けた赦しが如何に大きいものかを知ることです。そうするとき、主イエスが47節で「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と語られたとおりになるでしょう。

「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」とありますが、私たちが受けている赦しは、「少ない」ということは決してありません。主イエスの十字架の贖いを受け入れた者は、莫大な負債を赦されているのです。

けれども、そのような赦しを受けている事実を私たち自身がどう受け止めるのか、で大きく変わってくるでしょう。私たちは自分自身がいかに多く赦しを受けているか、改めて覚えたいと思います。そして、多く赦されている者であることを自覚し、神さまと隣人とを大いに愛するものとして歩んでいきましょう。ハレルヤ!

片平貴宣牧師