みことばの糧 1174

『癒し主に従う信仰』

ルカによる福音書7章1節~10節 新約聖書p.114

「百人隊長の部下の癒し」です。イエス様による癒しの奇跡を耳にした百人隊長は「ユダヤの長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」とあります。すでにユダヤ教指導者たちは「怒り狂って」(ルカ6:11)激しくイエス様を敵視していましたので、さぞかし嫌な役目であったと思います。

しかし、「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った」のでした。彼らは百人隊長が「そうしていただくのに【ふさわしい人】です」と口添えをしました。口語訳では「あの人はそうしていただく【値打ち】がございます」とより分かり易い表現がされています。それは、「百人隊長がユダヤ人を愛して、みずから会堂を建ててくれた」からでした。病に苦しんでいる(マタイによれば中風でひどく苦しんでいる)人が可哀想だから癒してあげてくれ、ではありませんでした。

なんとも‘都合の良い話し’ですが、イエス様はこれに応えられました。ここにイエス様の分け隔てのない愛が示されています。

イエス様は自分を敵視しているユダヤ教指導者たちの願いを聞き入れ、病人のもとに向かわれました。すると「百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。』」と伝えさせ、「ただ癒しの命令を下さい」と願ったのでした。

伝え聞きでありながら、隊長は完全にイエス様を信じていたのです。部下の癒しのために。マタイでは、百人隊長自らがイエス様に懇願し、そして、ルカと同様に「癒しの命令」だけを求めたとあります。当時のユダヤはローマ帝国の統治下にありましたから、支配者側が属民に対してここまでの平身低頭、礼を尽くすのは考えられないことです。しかも自分のためではなく部下のためです。

イエス様はこれに感心し、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と絶賛されました。それはイエス様に対して礼を尽くしたからではなく、部下の癒しのために、信じ抜く心根を称賛されているのです。

ここに信仰の本質が明らかにされます。勿論、信仰は自分の救いのためですが、必ずや「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)へと“聖化”していくのです。「霊の結ぶ実は愛であり」(ガラテヤ5:22)、聖霊による神の愛は与える愛、仕える愛なのです。

イエス様は神の御子でありながら、病人に仕える「癒し主」となって下さいました。これぞ我らの希望であり、そのような主イエスに従いお仕えして参りましょう。ハレルヤ! 中島 聡牧師