みことばの糧1172

『毎日を祝福される主』

ルカによる福音書6章1節~11節 新約聖書p.111

「安息日」における主の御業、御心に学びます。イエス様は空腹だった弟子たちが麦畑の穂を摘み食することを善しとされ、これを咎めるファリサイ派の人々に対して、逃亡中のダビデが家臣のために、祭司以外には許されていない「聖別されたパン」(レビ記24:8-9*永遠の契約)を与えたことを話されました(サムエル記上21:1-7)。

さらに「ほかの安息日」に、右手が萎えていた人を癒されました。律法学者の人々はイエス様を訴える口実を見つけようとしていました。イエス様は「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と問い掛けて、律法は人を活かすためにあることを説かれました。

先主日のベトサダの池における癒しの奇跡も安息日に行われました。そこにはわざわざ「イエスが、安息日にこのようなことをしておられた」とまで記されています(ヨハネ5:9)。イエス様は安息日に18年間も病の霊に取りつかれていた女性を癒されました(ルカ13:10-17)。また水腫の人を癒されました(同14:1-6)。盲人を癒されました(ヨハネ9:14)。

これに対してユダヤ教指導者たちは「イエスを迫害し始めた」、「イエスを殺そうとねらうようになった」(ヨハネ5:16,18)、今朝の場面でも「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあります。愛を受けとることができない心の末路です。

イエス様がこれらのことをなされたのは「人の子は安息日の主である」からです。主は6日間によって、天地万物、大自然、動植物、人間、全ての命を創造してくださいました。これだけでも計り知れない恵みですが、さらに7日目に、すべてを聖別し、祝福して下さいました。

祝福するとは、主の恵みを与えることです。命を与え、回復を与え、癒しを与え、罪を赦し、「神の子」としてくださることです。

その安息日に人が為すべきは、勿論、十戒に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と刻まれている通り、礼拝を守ることですが、イエス様は、この病の奇跡を通して、安息日において人を活かすこと、病を癒し、人に仕えることを示されています。

ですから、バランスが大切ですが私たちは日曜礼拝を守ると共に、日曜であっても良き業、様々な集会を持つのです。そこに集う一人一人が心の安らぎ、また霊的な力を得るためです。イエス様は安息日に限らず、御言葉の説き明かし、癒しの奇跡を行われました。主の祝福は永遠であり、毎日が祝されているのです。私たちも日々、感謝の祈り、また示された伝道に仕えて参りましょう。

ハレルヤ! 中島 聡牧師