みことばの糧1181

『主から与えられる幸い』

マタイによる福音書 5章1節~12節

 「山上の説教」の第一段落は実に簡潔、箴言と言うべき説教です。イエス様の説教を聞きに来ていた人たちは、「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」人々と、その奇跡を見た大勢の群衆でした。
 イエス様はこれらの群衆を見て、山に登られ、「山上の説教」を語られたのです。「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」とありますが、その内容は記されていません。宣教とは言葉で説明するだけではなく、「義なる行い」が大切なことを示されます。
 イエス様は開口一番、「心の貧しい人々は、幸いである。」と宣言されました。幸いになれる、ではなく、幸いだ、というのです。誰もが首を傾げる言葉ですが、「幸い」と訳されている言葉は「Blessed」であり、祝福される、すでに祝福された、ということであり、神の御子がこの世に降誕されたこと(やがての十字架と復活)によって、すでに、全ての人への祝福は成就しているということなのです。
 さらには、Blessedと訳されたμακάριοι(マカリオイ)というギリシャ語は「死のない至福の状態」という意であり、永遠の命が与えられることを宣言されているのです。
 心の貧しいとは「霊の貧困」であり、罪によって「第二の死」(ヨハネの黙示録2:11,20:14,21:8)に至る人、すなわち、わたしたち全てのことです。
イエス様の福音は、私たち全ての人が、神の御子の十字架と復活によって永遠の命が与えられるという祝福に尽きるのです。だから「天の国はその人たちのものである」と宣言されているのです。この大いなる幸いを信じるならば、悲しみは慰められ、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和を実現する者、迫害されようとも義のために生きる者を志していくことができるのです。「神は定められた時にキリストを現してくださいます。」(Ⅰテモテ6:15)キリストが再臨されるその時まで主の祝福を満身に受け、福音を宣べ伝えて参りましょう。

ハレルヤ!中島 聡牧師