みことばの糧 1185

『岩を土台とする教会』

マタイによる福音書7章24節~29節

岩の上に建てられた家と、砂の上に建てられた家、イエス様の非常に有名な譬え話ですが、これが、イエス様の最初の説教集である「山上の説教」の締め括りとなります。
イエス様は、山上の説教の冒頭、「あなたがたは幸いだ!」、それは、わたしがあなたを必ず祝福するからだ、と言われました。そして、説教の半ばには、群衆からの質問に答える形での説教が語られましたが、その最後は、やはり、どうしてもイエス様から伝えておかなければならないことが語られたわけです。
この岩の上と、砂の上の譬えは、ルカ福音書における「平地の説教」においても、やはり最後に語られています。マタイ福音書が山の上の山上の説教。ルカ福音書は6章17節に、わざわざ、「イエスは彼らと一緒に山を下りて、平らな所にお立ちになった」と記していて、そこから「平地の説教」と呼ぶのですが、この違いはまたの機会にしますが、マタイ、ルカ、両方ともに、この岩の上か、砂の上かが、最後になっている、締め括りになっています。教えとしての重要性が強調されているわけです。

イエス様は、こう言われます。岩の上に家を建てる者、すなわち「わたしの言葉を聞いて行う者」となるか、それとも砂の上に家を建てる者、すなわちイエス様の「言葉を聞くだけで行わない者」となるか、どちらですか?二者択一、どっちか、実に明確な信仰的決断を迫っておられます。しかして、ここで、「御言葉を行う」というのは決して簡単なことではありませんね。

そもそも、この教えは、24節の出だし、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆」、とあるように、その前置きの「これらの言葉」を見ておかなければならないわけです。上の段、先ず、21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」厳しいですね。私たちは、礼拝で、「主よ、主よ」と祈り、また、「主よ、主よ」と賛美します。一見すると、「礼拝を守っているからといって、お祈りしているからといって天の国に行けるわけではありませんよ。ちゃんと御言葉を行わないと!」と言われているようですね。そして、続きを見ますと、その行い、というのが、これまた厳しいんです。

「『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」とあります。しかしですね、イエス様はこう言われるのです。「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」厳しい、一点の曇りも無い峻烈な厳しさですね。

「行え」と言いつつ、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行おうとも、こんなに凄い善い業、善行を為そうとも、ダメだ、と言われるのです。どうしてですか?イエス様は、桁違いの善行をしろ、と言われているのではない、ただ、「天の父の御心を行う」者となるように、言われているのです。
天の父の御心とは何でしょうか? イエス様が教えてくださいました。神を信じ、神を愛すること。と同時に、自分を愛するように、自分の隣り人を愛すること。

弟子のパウロは、これを「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と教えました。自分が救われたことへの感謝をもって礼拝を守り、神に仕え、救いの喜びを、愛をもって隣人に伝えるために、礼拝の奉仕に仕える、愛をもって伝道に仕える、ただその一つを、イエス様は求めておられるのです。決して、何ができたか、ではないのです。祈ろう、賛美しよう、伝道しよう、と思った時の、その心、を問うておられるのです。まさか虚栄心ではないし、誰々よりも自分の方が優れているではない。

神の愛に満たされて祈り、賛美する。そして、御言葉を宣べ伝える、伝道する。それが、天の父なる神の御心を行う、ことなのです。

さあ、今年、2024年、横浜聖句書道展が清水ヶ丘教会で開催されます。すでに山根先生御指導のもと、準備会が始まっています。聖句、御言葉を書にし、主イエスに仕える。これも大切なことですね。一昨年、大人から、子どもの教会の子ども達、ミッションスクールの子どもたち、広がりを見せましたね。私も自分に気合いを入れなければならないと、聖句書道展の指導者も出展されている第66回横浜書道連盟「同人展」に行かせていただきました。

ご覧下さい。今回の作は、死の前日に洗礼を受けた中村草田男の詩が記されておりました。「勇気こそ 地の塩なれや 梅真白」これは昭和19年、学徒出陣に向かう教え子に手向けた詩と言われています。勇気こそ、地の塩なれや、決して死なずに、帰ってくること、それこそが真の勇気、尊き「地の塩」だというのですね。梅真白とは、梅の花、寒さ厳しい中にも、無垢に、真っ白に咲く梅の花をして、そこに清らかな品格を思わせられます。
勇気こそ、地の塩なれや、梅真白
寒さ厳しい中、いよいよ戦争も末期に突入する昭和19年の厳しい中、生きて帰ってくるように、あなたがたは、大切な地の塩なのだ、決して死なぬように、と教え子への愛を込めて詠んだのです。

わたしたちにも、イエス様の愛に心打たれ、何かできることがあります。この書道展の運営者の方が、「今年は清水ヶ丘教会で聖句書道展がありますね」と話してくださいました。皆で良い聖句書道展を開くことができますように。たとえ書がかけなくても、背後で祈ることができますね。

預言も、奇跡も、できるならば素晴らしい、しかし、どうしてもこの人に救いを伝えたいという、その人への愛がなければ無に等しい。逆に言えば、少しでも力になりたい、というほんのわずかの愛と祈りが、そして、たとえ、ほんのわずかでも自分を献げたい、それが、天の父なる神様の御心となるわけです。
この天の父なる神の御心をよく理解できるものがあります。

人を助ける、人を救うという人間の考えるうる姿は、ヒーローに現れます。

人間の考えるそれは、仮面ライダーにしろ、ナショナルキッドにしろ、ウルトラマンにしろ、圧倒的な力で敵を倒すというものですが、1973年、日本に、特異な、とても変わったヒーローが誕生しました。自分の顔を食べさせて人を助ける、という変わったヒーローでした。その名は、アンパンマンです。
ヨハネ福音書6章48節、イエス様は言われました。
「わたしは命のパンである。」
「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

わたしを食べて永遠の命を得るように言われました(ヨハネ福音書六・四八~五一)。

イエス様も圧倒的な神の力によって病を癒し、悪霊を追い払われましたが、私たちの救い主、助け主としては、力ではなく、自らの命を与えるという自己犠牲の愛によって、救いを成就してくださいました。ここにキリスト教信仰の真髄があります。

やなせたかしさんのアンパンマンを世に広めたフレーベル館の創始者・高市治郎は、ドイツのキリスト教教育者フリードリ・フレーベルを尊敬し、フレーベルの考え方をそのまま、社是、社訓として幼児教育の普及のためにフレーベル館を設立しました。フレーベルは生まれて間もなく母親が天に召され、さいびしい幼児期を過ごすとのですが、父親に「キリストを身に体し、キリストの生活を実現する」ことを教えられ、やがて幼児の神性と創造性を涵養するため世界で初めての幼稚園の開設、保育者、幼児教育者の養成を行う人となったのです。思うんですが、父親に教えられたから、と言って、出来ることではないですね。
生まれてすぐに母を失ったさびしさは、いかばかりだったかと思います。しかし、聖書を読み、イエス様の愛にふれ、幼稚園を作った、もちろん、幼児教育、キリスト教幼児教育のためですが、その根底は、子どもには悲しい思い、さびしい思いをさせたらあかん、ということだと思います。まさに、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く、です。ここがなければなんにもならない。

マルコ福音書9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
さらに、「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」とあります。幼な子を受け入れていくということは、それだけで、天の父なる神の御心を行うこととなるのですね。

2024年、決して、楽な年ではないでしょう。わたしたちは、戦争、災害と隣り合わせに生きています。しかし、清水ヶ丘教会、2024年の聖句は、「神は、定められた時にキリストを現してくださる」(第一テモテへの手紙六・一五)です。

そして、教会標語は、「主の祝福を繋いでいこう!」です。私たちは、主から与えられてきた祝福を世に繋いでいくことを願っています。主から与えられた祝福はこの境内地、この教会、この幼稚園をはじめ、数え切れないものがありますが、最大の祝福はイエス・キリストの命をいただいて、永遠の命が与えられたことです。

この祝福を繋いでいくのが清水ヶ丘教会の今年の目標であり、教会が存続する限りの使命でもあります。永遠の命を繋いでいくことを福音宣教、伝道と呼びます。これは決して簡単なことではありません。
しかし神は必要な時にキリストを現してくださるのです。創立者・倉持芳雄牧師、ラング宣教師、メーヤー宣教師をはじめ、皆キリストを見てきたのです。

イエス様は、ペトロを岩と呼び、この岩の上にわたしの教会を建てる、と言われました。逆さ十字架に身を献げたペトロのようにはなれないですが、ペトロの手紙一 2:5a
「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」

岩とまではいかないでしょうけれども、せめて、石、いや小石でもいい、しかし、神様は、路傍の石からでもアブラハムを生まれさせることができる御方です。

天の父なる神様の御心、この人にさびしい思いをさせてはならない、そんな思いで、福音に仕えるならば、必ずや主が栄光を現してくださるのです。

家族のために、友のために、あなたのために、祈りをもって新しい歩みをなして参りましょう。

ハレルヤ!中島 聡牧師