みことばの糧 1186

2024年2月11日

『神に栄光を帰す信仰』

ヨハネによる福音書11章38節~44節

ラザロの生き返りの奇跡に学びます。
イエス様にとって最後の過越祭、すなわち、十字架に架からねばならない、その時が近づいてきていた時のことです。
マタイ4:23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
4:24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
マタイ9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

これまでにイエス様は数え切れない病を癒され、悪霊を追い出されました。
イエス様による死者の生き返りはラザロを含めてわずか三例(マルコ5:21~43「会堂長の娘」、ルカ7:11~17「寡婦の息子」)しか聖書に残されていません。バプテスマのヨハネからの使者に対して、イエス様が「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、…重い皮膚病を患っている人は清くなり、…死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11:4-5)と答えられており、もしかしたら、甦りの奇跡は他にあったのかも知れませんが、聖書には3つしか記録されていない。甦りの奇跡が突出して稀有な奇跡であることが分かります。

マルコの会堂長は敵対する者でしたが、「幼い娘」のためにイエスの「足もとにひれ伏して、しきりに願った」とあります。これ以上はない子を思う親の気持ちが窺えます。ルカの寡婦の息子は「若者」とあり、寡婦にとって心の支えであったことでしょう。生き返りの奇跡が行われた背景に、憐れみの御心、神の愛のあることは瞭然です。

そして、三つ目のラザロの甦りですが、彼はマリア、マルタとともにイエス様の愛する友でした。ラザロは重い皮膚病であり、弟妹は大変な思いをして生きていました。そのラザロが死にかけているとの知らせを受けましたが、イエス様はユダヤ教指導者たちによって「ついこの間も石で打ち殺されそうになった」のでヨルダン川の向こう側に避難しておられました(11:8)。しかし、イエス様は弟子たちにベタニアに向かうことを告げられました。ベタニアはエルサレムから15スタディオン約2.8Kmしか離れておらず、自らも命の危険に晒されます。弟子たちはイエス様を留めようとしますが、この時は、トマスが「わたしたちも一緒に行って、一緒に死のうではないか」と忠義心をあらわにしました。

イエス様は、ラザロの生き返りの奇跡が十字架への決定打になることを知りつつ(12:10-11)、ただ「神の栄光」のため(十字架によって全ての罪を贖い、全ての人に永遠の命を与える)ためにラザロを死から癒されました。事実、ヨハネ12:10~11「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」と、イエス様を殺害することはもう自明のこと、さらにはラザロまで、甦りの奇跡はそれだけのインパクトがあったわけですね。

さて、先に述べた甦りの二例には、イエス様の憐れみの心が読み取られました。幼い娘、寡婦にとっての一人息子、若者、というキーワードによってですね。このラザロには、ここだけの、特別なイエス様の心情が描かれています。それは、33節「心に憤りを覚えられた」という言葉です。憤り、これは38節において「イエスは、再び心に憤りを覚えて」と二度も繰り返されているんです。一体、何に憤りを覚えておられるのか?これまでと同様、ラザロの場合も、マルタとマリアですら、死んでしまったものはもうどうしようもない、という思い込んでいます。

なぜ、信じられないのか、という憤りもあったとは思います。しかし、イエス様は、これまで甦りの奇跡を実に淡々と行っておられる。周囲からは、無理だの、言われても意に介されない。ご自身が甦りの力、権能を持っておられることをよくご存知だからです。
では、ラザロの場合、何が違うのか。深く愛しておられた者の死だからか?それもあるでしょう。しかし、イエス様のこの心の激しい揺れ動き、その最大の要因は、ラザロの死に自分を重ねないわけにはいかない、といくことです。

すでにユダヤ教指導者たちはイエスを殺害しようとしています。イエス様はそこから逃れることが可能です。しかし、過越祭が近づいてきた。いよいよ、十字架に架かる時が来た。自分もこのように死なねばならない。この命を捧げねばならない。
しかし、誰も自分を理解しない。理解しないどころか、ユダは裏切り、ペトロは私を知らないと言う。しかし、イエス様は十字架に架かられた。なぜこんな散々な状況の中、十字架に架かることがおできになったのか。それは十字架の先にあるものを見つめられたからです。
自身を犠牲にすることによってすべての人に救いをもたらすことができる。

すべての人にこの死からの甦り、永遠の命を与えることができる。
イエス様は、私たちの喜びを見られた。これが喜ぶ者と共に喜ぶ、の神髄です。嬉しい?わたしも嬉しい!
人の成功を妬まないで喜んであげる、それも大切なことですが、本当の喜ぶ者と喜ぶとは、自分はとてもじゃないが喜べないのに、その人の喜びのために仕えるということなんですね。
つくづくイエス様の弟子となることは、簡単なことではないと知らされます。
しかし、たった一つ、主よ、そんな私をおゆる赦しください、あなたの愛であなたの御心にかなうように用いてください、祈るならば、賛美するならば、主は聖霊をそそいで私たちを用いてくださる。

受難節に入ります。イエス様が十字架を直視しながらもその先を見つめられたように。私たちも決して現実から目を背けるのでない、その苦しみは見つめなければならない。しかし、その先にあるもの、主イエスを仰ぎ見るならばわたしたちは歩み行くことができる。

受難節一斉訪問が始まります。
お一人お一人、それぞれに大変な中におられることでしょう。しかし、主の愛が一枚の葉書に、一本の電話に手を向けさせてくださる。
イエス様は、サタンの誘惑を退けられた時、その権能、神の御子としての力を自分のためには用いないことを誓われた。十字架に磔られても天の軍勢を呼ばないこと、十字架から降り立ち、神の御子としての力を振るわないこと。完全なる人として死を迎えねば神の愛によってしか為し得ない罪の贖いが成就しないからです。
レント、受難節の時、私たちは主の十字架をしっかりと見なければなりませんが、私たちもまた、その先にあるもの、イエス様の復活を仰ぎ見て、その希望によって歩んでいかねばならないですね。
復活のイエス様は清廉、まことに清々しい御姿でありました。ペトロを赦し、疑り深いトマスを信仰に導き、弟子たちの不漁を大漁に変え、そればかりか、主自ら朝食を準備して弟子たちを迎えられた。エマオへ共に歩かれ、最後の晩餐、本当はあれで終わりのはずなんですが、もう一度、パンを裂いてくださり、弟子たちを励ましてくださいました。

私たちも十字架の主から復活の主を見上げる時に、一斉訪問に仕えることができるのです。私たちは赦され、癒されるのです。
死からも癒されるのです。この福音を宣べ伝えて参りましょう。 ハレルヤ!

中島 聡牧師