みことばの糧 1187

『十字架に仕える信仰』

マタイによる福音書20章17節~28節

イエス様はエルサレムへ上っていく途中、弟子たちにそこで何が起こるかを話されました。これは3回目の告知でした。イエス様は幾度となく御自分に起こることを弟子たちに伝え続けていましたが、今回は明確にどのようなことが起こるかを告げています。かつてエルサレムはダビデによって首都とされ、そして神殿が建てられ、神の都とされていました。つまり祝福と喜びに満ちた都だったのです。しかし、イエス様はそこで死ななければならないことを知っていました。嘲られ、鞭打たれ、十字架につけられるということをはっきりと弟子たちに語りました。しかしながら、ここでも弟子たちの無理解さが現れています。ヤコブとヨハネの母親はイエス様が王座に就かれる時に二人を左右に就かせて欲しいと願います。他の弟子たちはこれを聞いて憤慨しました。なぜなら彼等もまた、権威ある地位に就きたかったからです。彼らはイエス様がエルサレムでローマ帝国を倒し、ユダヤの王を倒し、新たな王として君臨すると勘違いしていました。しかし、イエス様はローマ帝国やあらゆる目に見える捕らわれからの解放ではなく、内なるものから解放してくださるメシアであることを示されたのです。そして、もし偉くなりたいならば、「皆の僕になりなさい」と教えられました。イエス様は弟子たちの足を洗われ、「互いに足を洗い合いなさい。」とお互いに仕え合うことを教えられました。さらに、イエス様が十字架に架かられたのは私たちのため、すなわち他者のためでした。このイエス様の歩み、生き方を見る時、私たちはどれだけ人に仕えているでしょうか。神様の前に立たされた時、どんなに人に仕えられていないかがわかります。この世の偉大な者になるより、神に仕え、人に仕える、ここに私たちの生き方があることを教えられているのです。このレントの時、主の苦難を覚えるだけでなく、人に仕えることができるように、そして勝利の主の愛が示されますよう祈ってまいりましょう。
ハレルヤ!

田中尚美牧師