みことばの糧1196

『霊による律法』

ルカによる福音書10章25節~37節

ウクライナ、ロシアにおける戦争は続き、徴兵年齢が引き上げられ、パレスチナ、イスラエル、イランにおける緊張が高まっています。
人の力ではどうにもできない自然災害が相次ぐ中、人災が続いています。私たちは御言葉から、神の言葉から、平和を、また隣人愛を学ぶものであります。そして、その神の言葉をなんとかして宣べ伝える者となっていかねばなりません。
今朝も、主の御名を誉め讃えつつ、イエス・キリストが語られた神の言葉に傾聴し、霊の糧をいただいて、主の御業に仕えて参りたいと願います。皆さん、ハレルヤ!

「良きサマリア人」の譬えに学びます。
これ、おそらく一番痛烈な譬えと思われます。分かりやすいのは良いのですが、本当に手厳しい譬えですね。
難解であった「種蒔き」の譬え話の時には、何度言っても「しるしを見せろ」と迫ってくる、ユダヤ教指導者たちがいたからでありましたが、今回も、「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った」とあります。試そうとした。 懲りないですね。 なぜか?
自分が正しいと思っているからです。だから、何度でも繰り返せるのです。

ユダヤ教指導者の一人である律法の専門家がイエス様に吹っ掛けてきました。
「先生、何をしたら、【永遠の命】を受け継ぐことができるでしょうか。」宗教問答としては一般的と言いますか、しかし、それだけに返答次第によって、大きく評価が分かれるところです。なんだ大したことない。 やっぱり、すごい。
これに対して、イエス様は、問い返されました。
「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」
すると、彼は私が質問したのだから、イエス、あなたが答えるべきだ、とは言わないで、自ら答えるんですね。周りで民衆も聞いていますから、専門家としてのプライドからでしょうか。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」これが、永遠の命を受け継ぐために為すべきことだ。後で触れますが、この答えはすごいんです。大正解なんです。

ところで、「永遠の命」という言葉は、旧約においては、申命記32:40、それは神御自身のものとして、ただ一度だけしか記されていません。しかし、新約聖書では43回も登場するほど、「永遠の命」とは神から与えられるものとして語り伝えられ、深く信仰に根付いていたことが分かります。皆、知っていると言えば、知っています。

では、律法の専門家が試したかったこととは「永遠の命は神の民、選民ユダヤ人にだけ与えられるのかどうか」でした。ユダヤの人々は当然ながら「永遠の命」という最高の報いは、神が最も求めておられること、すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」に応えることによって与えられると受けとめていました。それが正しい答えでした。
ですから、28節、「イエスは言われた。『正しい答えだ。』」
これで終わりだったら良いのですが、ただし、ただしですね、「また、隣人を自分のように愛しなさい。」という律法が付いてくることによって、「救いはユダヤ人のみ」という彼らからすれば、金科玉条に引っかかってしまうのです。
「選民思想(選民至上主義)」はユダヤ人にとって最も大切なアイデンティティでありイデオロギーでもありましたので、「永遠の命はユダヤ人にだけ与えられるもの」という排他的な信仰に陥ってしまっていたのです。

ですが、それを最も正しいこととしていましたので、どうしても「隣人を愛しなさい」が困る、隣人が異邦人だったら困るんです。申命記7:6、確かに神はユダヤ人を「主の聖なる民、宝の民」に選ばれました。
しかし、同時に神はすべての民への愛を明らかに示しておられました。たとえば。申命記10:12「主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え」とあるのですが、その10章は、「孤児、寡婦」への慈悲、そして「寄留者(異邦人)を愛しなさい」と宣言され、締めくくられているんです(申命記10:18-19)。神様が、御自身への愛を求めてられると同時に、ユダヤの人々に、隣人愛を求めておられることは明白なんです。まさに、律法の専門家が答えた、レビ記19:18「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」、ただ一回、旧約聖書に登場するこの律法、彼はそれをしっかりと読み取り、覚えていた、その上段部分レビ記19章9節、10節には、「貧しい者」、そして「寄留者(異邦人)」への人道的配慮、愛が記されているのです。

隣人に「寄留者」が含まれていることは明白です。今、言いました通り、「隣人を自分のように愛しなさい」を答えに加えた、この律法の専門家は本物の専門家であり、モーセ五書を完璧に読み込んでいたと言えます。しかし、その隣人をユダヤ人以外にも広げ、「すべての人」とすることはできなかったのです。
隣人に異邦人を加え、そして、神様は異邦人をも愛すること、異邦人も神の愛の中に入っていること、すなわち、救いの対象であることを認めたくなかったのです。ですから、28節、「イエスは言われた。正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われた時、29節、「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とは誰ですか』」と白を切ろうとしたし、なんなら、イエス様が隣人に異邦人を含めようなら、イエス様を非国民に陥れようとしたのです。

彼は、非常に優秀な律法の専門家であった、しかし、残念ながら神の愛を歪め、救いを歪め、律法主義に陥り、すべての人が愛されねばならないし、すべての人が神の愛の中に入れられている、ということを消し去ろうとしてしまったんですね。イエス様は、なぜ、ここまで痛烈な譬え話をされたか。それは、神の愛を否定し、神の愛よりも律法や規則を優先させることへの教えだったのです。

良きサマリヤ人の譬えが話されました。強盗に襲われ、放っておいたら死ぬばかりの人を、祭司も、レビ人も見捨てて行ってしまいました。これは、ユダヤ教指導者たちが、異邦人を救いの対象として見ていないことを言い表しています。ところが、普段、自分たちが蔑視している異邦人、サマリヤ人が、傷ついた人を助けてあげました。さらに自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って、その人のために宿をとってあげ、介抱してあげ、さらにさらに、翌日、その人は行くべき所があったが、宿屋の主人に銀貨2枚を渡して、傷ついた旅人の介抱を依頼し、足りない分があったら帰りがけに私が払うから、と言って出かけて行った。

イエス様は、「隣人とは誰か。」と問われました。すると、律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と答えた。それ以外にはありません。
しかし、私は、よく、答えたと思うのです。イエスを試してやろう、陥れてやろう、と思っていた。その根底には、選民思想、自分たちだけ、という彼の大切な正義があったんです。
しかし、「隣人はサマリヤ人だ」と答えたんですね。ものすごい、面当て、とは言いませんが、あなたの言っていることは違いますよ、とイエス様の諭す譬え話であったわけです。
しかし、彼は、答えた。

私は、この律法の専門家の心に、イエス様の言葉が届いたんだ、と思うんです。最初の方に、永遠の命を得るためにはどうすれば良いか、という問答は一般的なもの、と言いましたが、この「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし」のやり取りは、新約聖書に4回出て来ます。マルコ福音書12:28~、 律法学者がイエス様に質問します。
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29  イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30  心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31  第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32  律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33  そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12:34  イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

人間、自分の考え、アイデンティティー、イデオロギーを変えるなんてことは、そう出来ないことです。普段、ユダヤ教指導者は、まるで悪の権化のように語られますが、このように、大転換をなして、イエス様の教えに心開く人がいるんですね。私は、すごいことだと思います。そのきっかけが、隣人愛なんですね。誰もが、困っている人がいたら助けよう、こんなあたり前のことが、一番、心に響くんですね。いろいろ、難しいことを言ったけれども、困っている人を助けてあげよう、ということで一致できる。きっとこのユダヤ教指導者の人たち、誰かから愛された体験がある人なんだろうな、と思います。

最後にいたしましょう。37節、イエス様は言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
教会は、御言葉の種を蒔くと共に、やはり隣人愛を現していかねばなりません。次主日、児童養護施設へのチャリティコンサートが行われますね。それも一つです。それぞれに何かできることがあるわけです。
祈って見出して参りましょう。

救いの門である教会がすべての人に開かれたものとなりますように祈り、福音宣教の御業に仕えて参りましょう。ハレルヤ!

中島聡牧師