みことばの糧1198

『神の捜索隊』

ルカによる福音書15:1~10
 
先主日、礼拝奉仕の説明会と地区消息の担当者会、どちらも、この教会にとって大切な奉仕と交わりに仕えるための時が持たれました。
昨年にまして奉仕者が与えられ、本当に感謝いたします。週報記載の通り、新しい方も加わってくださいますので、教会全体で、温かく迎え入れ、丁寧に導いていっていただきたいと願います。
地区消息は、後で触れますが、今年の新たな試みである教会交流会についての説明をなし、地区消息と地区全体会をより深めていくことを話し合い、受難節一斉訪問の報告、各地区の消息、そして、聖餐礼拝の準備について話し合っていただきました。大きな感謝であります。
また、その後、教会主催による児童養護施設を覚えてのチャリティピアノコンサートが開催され、堀川愛生園、バット博士記念ホーム、愛泉寮のために沢山の御厚志が献げられました。演奏者、また聴衆の皆様に心より感謝いたします。
このように2024年度も、教会は主イエス・キリストの御教えに従い、教会を守ること、信仰の交わりを守ること(フィレモン1:6「わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。」)、伝道、隣人愛に仕えることに祈りを合わせ、邁進しております。
今朝もイエス様の御言葉、そのすべてが、すべての人に届くように譬えによって語られた神の言葉をいただき、さらに福音に仕えて参りたいと願います。
主の御名を誉め讃え、霊の糧、永遠のマナをいただいて参りましょう。みなさん、ハレルヤ!

「見失った羊」、「無くした銀貨」の譬えに学びます。

迷子になった一匹の子羊、どこかに行ってしまった一枚の銀貨。両者は、もしかしたら、放っておかれるかもしれない、捨ておかれるかもしれない存在を言い表しています。
イエス様の周りには、山上の説教で学んだ通り、病に苦しみ、悩み、悲しんでいる人が大勢、集まってきました。ルカ4:40では、イエス様は「その一人一人に手を置いて癒され」たとあります。
そしてまた、イエス様の周りには、後ろめたい思い、肩身の狭い思いをしている人が集まっていました。

今朝の15:1、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来」た、とある通りです。イエス様は、病者にその手を置かれ、そして、徴税人、罪ある人たちには、食事を共にしながら、御救いの話しをされました。これはとても大きなことです。重い病の人は罪の結果と捉えられ、遠ざけられていた時代に、手を置き、罪人と一緒に食事をすることなどもっての他の時代に、一緒に食事をされる、それは友の証でもありました。

ですから、2節、その様を見て、またしても、ファリサイ派や律法学者、ユダヤ教指導達が、「『この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている』と不平を言い出した」のです。切ないことですね。しかし、3節、「そこで、イエスは次の譬えを話された。」不平不満に対して、イエス様は愛に満ちた譬えを話されたのです。こうなりますと、なんだかんだ言って、敵対者、ユダヤ教指導者達の存在によってイエス様の愛のメッセージが引き出されており、イエス様の一番の聴衆は彼らだったのではないか、イエス様はユダヤ教指導者にこそ、最も良い話しをされていたのではないか、と思えるぐらいですね。

さて、迷子になった一匹の子羊ですが、一般に、絵画でも、メッセージで取り上げられる時も、子羊となっていますが、聖書では、並行記事マタイ18:12-14でも、「羊」となっています。子羊とは書いていません。ただ、見つけ出した時に、5節「喜んでその羊を担いで」とあり、羊の成獣は、品種にもよりますが、ゆうに100kgを超えますので、これは小羊だろうとなっているわけです。
ただ、分からないです、イエス様、ものすごい力持ちで、そう言われたのかもしれないです。もちろん、信仰の巨人であって、大人でも成人でも担いで連れ帰ってくださる、そう受け取って良いと思います。

本題に戻りますが、見失った一匹の羊、無くなった一枚の銀貨、どちらも共通していることは、「見つかるまで探す」こと、そして、見つかったら、「一緒に喜んでください」と呼び掛けが行われ、大きな大きな喜びとなること、すなわち、その一匹の羊、一枚の銀貨に大きな価値、とてつもなく深い愛着のあることが語られています。この羊とは、この銀貨とは、罪人のことです。あえて、同じ意味の譬えを羊と銀貨に譬えて話されたのは、イエス様の話を聞きに来ていた人々に、当時は罪人と同列に置かれ、人民登録からも除外されていた羊飼いがいたからかもしれません、また、銀貨は、徴税人にとってみれば、より理解できる題材であったことでしょう。どちらにしましても、ユダヤ教指導者たちからすれば顔をしかめられる存在だったのです。
しかし、イエス様が大いなる愛と喜びを表明されています。一人の罪人の悔い改めは、「天における大きな喜び」、「神の天使たちの間の喜び」とまで語られています。

大変、素晴らしいのですが、7節、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」とまで言われますと、
誰もが少なからず「九十九人の正しい人」への同情の念を覚えると思います。
ちゃんと従ってきたのに、真面目にやっていたのに、なんだ、と思うのも無理はありませんね。

この疑問への答えとして、マルコ福音書2:17、同じくイエス様が大勢の徴税人、罪人と食事を一緒にされていた時に、ファリサイ派、律法学者たちが、なんだ!と怒ったのに対して、イエス様がこう答えておられます。
マルコ2:17、「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マルコ2:17)。
そもそもがですね、イエス様、神の御子が地上にお生まれになったのは、ヨハネ1:29、バプテスマのヨハネが言った通り、「世の罪を取りのぞく小羊」となるためなのです。ここにもう結論があるわけですが。

誰もが理不尽さを感じる譬え話ですが、やがて気づきます。病気を一度もしないという人がいないように、罪が一つもない人はいないという事実です。ここを悟ると、イエス様はすべての人を探し求めてくださるんだということ、そうです、私のことをどこまでも探し求めてくださり、天の国に連れ帰ってくださるんだ、イエス様の深い愛と恵みが分かるわけです。イエス様は今も探し回っておられます。先ほど、読みました通り、天において、天使たちも罪人の悔い改めのために祈り働きかけていることが分かります。教会において先にこの恵みにより救いに入れられた者は、この神の捜索隊に加わるのです。加わりましょう。
それが、地区消息であり、礼拝奉仕なんです。
ここで大切なことがあります。先ほど、この譬えは、イエス様の深い愛と恵みだと申しました。私たちの教会における営みは愛と恵みに根ざしたものです。

様々な事情によって、奉仕ができない、という方もおられます。もちろん、皆さんよく分かっておられますが、願いつつもできない、という方のために祈り、心砕くことが肝要です。そして、「具体的な奉仕はできないけれども、皆さんのために祈っていますよ」、この祈りによって奉仕者は支えられていることを忘れずに為していかなければなりませんね。

聖書では、自らを低くして、仕える者となりなさい、とあります(マタイ18:4)。う~ん、と思う時もあるかもしれませんが、イエス様を見れば、アーメンとしか言えませんね。イエス様は、私たち探し出し、見つけ出し、天の国に連れ帰ってくださいます。
しかし、イエス様御自身は、ヨハネ1:29、先ほど、申しましたとおり、「世の罪を取り除く神の子羊」として、世に来られました。
それは、イザヤ書53章に預言されていたことです。
53:6「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」
北イスラエル王国、南ユダ王国に別れ、神の民、羊たちはばらばらになり、滅びへと向かっていきました。本来は、すべての者が滅びに至らねばならないのです。
しかし、「そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」とあります。
53:7「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」

そして、53:8「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」イエス様は、ただ一人、弟子たちからも、群衆からもはじき出され、ただ一匹となりました。
誰も探しに来てくれず、「いや、こんな羊は知らない」とまで言われ、それでも、私たちの救いに仕えるために、最も低く、低くなられ、その命までも献げられました。

この愛によって、わたしもイエス様に探し出して、見つけ出していただきました。
わたしたちも新たな救いのために、わずかなりと、自らを捧げて参りましょう。
奉仕者を祈って支えてあげましょう。

マタイ18章の「失われた羊」の譬えでは、続いて、天の国の鍵の再授与が記されています。すなわち、伝道のための天から力が与えられることが宣言されています。
また、二人または三人が我が名のためにと祈るならば、と祈りに天の父なる神とイエス・キリストが臨在されることが記されています。

この捜索隊は最強なんです。上よりの力あることを信じ、共に伝道の御業に仕えて参りましょう、ハレルヤ!

中島 聡牧師