みことばの糧1199

『天国への帰還』

ルカによる福音書15章11節~24節

おはようございます。今日は教会から誕生した「母の日」ですね。子どもの教会では、それぞれのクラスで、母へのプレゼントを一緒に作っていただきました。感謝いたします。
また、昨日は、KGCMファミリークワイアのレコーディングがあり、各地からキッズ・ジュニアの子たちたちも集まって一緒にレコーディングを行いました。保護者、お母さん方も見にきていましたので、堂々と讃美する姿は、一日早い、母の日のプレゼントになったことと思います。
また、後で触れますが、35名のキッズ、ジュニアのクワイア、また110名にのぼるファミリークワイアによる新しいオリジナルの讃美をレコーディングできたことは感謝なことであり、またレコーディングの会場として清水ヶ丘教会、ミッションホールが用いられたことは本当に感謝なことでありました。新しい讃美が福音伝道のために豊かに用いられますように祈って参りたいと願います。

さて、今朝は、放蕩息子の譬えに学びます。どちらかと言えば「父の日」の方が相応しいとも思えますが、これ以上ない神の愛を学び、感謝を覚えるということにおいては今日に相応しい、またいかなる日においても必要なことであります。主の御名を誉め讃え、主イエスが語られた御言葉の恵みに与って参りましょう。ハレルヤ!

心に響く譬え話の中でもこれぞ「不朽の名作」、涙無くしては読めません。ただし、前半部分で終わっていれば。見出しは「放蕩息子の譬え」となっていますが、弟息子だけでは終わりません。後半に「冷静(冷酷)兄貴のたとえ」が続きます。
 前半の感動でしめくくられていたら…、と思いますが、しかし、この譬えの本質と意義は、前半、後半、両方にあり、全体を通して、なお主の愛の深さを知ることになるのです。
誰もが父親と弟息子との再会、父の愛の深さ、全き赦しに心打たれます。7年前、2017年、水原城教会訪日団歓迎プログラムの一つとして、劇団リーベの皆さんにも手伝っていただいて、この放蕩息子の譬えをこの会堂で上演したのを覚えています。最後、おとうさ~ん、アボジ~、と叫ぶシーンは感動ですね。
20節「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を【見つけて】、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」ルカ福音書15章、放蕩息子の譬えに先立って、失われた一匹の羊、一枚の銀貨を絶対に見つけ出す譬えが語られており、「神の捜索隊」の集大成がここに記されています。
 しかし、兄が登場するんですね。弟息子、一匹の羊、一枚の銀貨、すなわち罪人の赦しを快く思えない、真の罪人が出てくるのです。

「善いサマリア人」の譬え(ルカ10章)において、「では、わたしの隣人とは誰ですか?」と冷たく問い直したユダヤ教指導者、異邦人を救いの枠の外に置いている時点の律法の専門家と同じです。ですが、この律法の専門家は、最後には「隣人はサマリア人です」と答えることができましたね。
イエス様のメッセージに心打たれ、「行って、あなたも同じようにしなさい」との呼び掛けに応える者となったのではないでしょうか。聖書にその後は記されていませんが、それは「あなたはどうするか?」との私たちへの問い掛けなのです。

兄は、父のあまりの寛容さ、弟への愛情の深さに怒りと嫉妬を覚え、家に入ろうともしません。兄は言います。29節「父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。』
ちょっと可哀想だな、と思いますが、物語の冒頭部分、12節、「父親は財産を二人に分けてやった」と書いてあります。兄もちゃんと、もう財産を貰っているんです。
でも、弟のための仔牛が気に食わなかったのですね。なぜか、もともと、弟のことも、そして、残念ながら兄は父のことも、愛していなかったからです。
ちょっとさびしい話しになりますが、ここらへん、一切、母親が登場しないことと関係があるかもしれません。
兄だけではなく、もちろん弟も、かつては父のことを愛していなかったし、厚かましくも「財産の半分をください」と言って、すぐに家を出ていったあたり、尊敬もしていなかったのでしょう。
愛していないとか、尊敬していないとか、言うよりも、むしろ、なにも分かっていなかったという方が正解かもしれません。

男の親子、兄弟、こんなものなのかもしれません。よっぽどのことがないと、愛情という言葉とは無縁かもしれません。兄は、実に心の狭いことを言うわけです。ですが、父親は兄の度量、器量の小ささを責めたりはしません。31節後半、「わたしのものは全部、お前のものだ」と告げ、「ただ弟が帰ってきたことを共に喜ぼう」と諭します。ところが、この譬えも、兄がこの後どうしたのかは記されていません。やはり、私たちへの問い掛けなのです。

かつて、許せないと思えたり、憎たらしく、妬ましく思えた人がいたかも知れない。しかし、今は、その人のことをどう思うか。むしろ、その人が困ったことになってしまった時、どう思うか。そこにこそ愛の光が見えるんですね。弟は、正直、どん底にまで落ちて、やっと父の愛に気づいたわけです。どんなに自分が大切にされていたか、愛されていたか。なんにも分かっていなかったが、人生の苦しみを経て、当たり前と思っていた愛に気づくわけです。また、本当の愛とは、その人が苦しんでいる時、窮地に立った時にどう思うかで分かります。なんとかして助けてあげたいと思えるか、勝手にどうとでもなれ、と思うかですね。

イエス様の譬え話を連続して学び、イエス様はどこまでもどこまでも罪人を探し求め、見つけ出し、赦すためにこの世に来られたことを知りました。ならば最もイエス様が心砕かれたのは、実は兄であり、ユダヤ教指導者の人たちということになります。確かに、イエス様が地上で話されたすべてのメッセージは、実は、十字架における「父よ、彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)に結実します。
血の汗を流して祈り、苦しみの杯を飲まれたのは、罪を赦すためです。

そして、ルカ福音書において、イエス様が復活なさって、弟子たちに語られたことの締め括りも、週報表紙にある通り、ルカ24:27「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名(メシア)によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」とお語りになっている通り、私たちの罪を赦すため、私たちが悔い改めて赦される、ということ、これがイエス様の願いなんですね。私たちも、このイエス様の愛を伝えるためにそれぞれの伝道に仕えるものとなるのです。

先週、礼拝報告で、ゴスペルおっさんびのメンバーが、命にかかわる病となりながらもレコーディングに臨み、受洗に至ったとお話いたしました。
クリスチャンとなって、真に讃美を通して主の救いを宣べ伝えるためです。
私、ある時、東京聖書キリスト教会のゴスペルプレイスで、メッセージをした日の祝祷で、彼のための癒しの祈りも捧げたんです。そうしたらですね、祝祷が終わって、帰っていこうとしましたら、「先生、わたしのために祈ってください」、「先生、わたしの主人のために祈ってください」、「わたしのクワイアのメンバーのために祈ってください」と何人も来られたんです。ゴスペルプレイズは、全国から月に一度集まって礼拝を捧げていますが、病と闘っている方がいっぱいおられます。様々な問題を戦っている方がほとんどでしょう。しかし、それでも讃美するんです。主の愛を証するために。教会もそうですね。問題のない人なんていないですね。本当は自分のことで精一杯ですね。しかし、それでもイエス様の愛に、赦され、救われた喜びによって、ほんの少しでもという思いで伝道に仕えていくわけです。

弟の立場に立ってイエス様の言葉を聞く時があるでしょう。また、時には兄の立場に立ってイエス様の言葉を聞かねばならない時もあるでしょう。いずれにしても、イエス様の愛は変わらないのです。
教会が祈り求める新たな救い。それは天の御国に帰ることができる人が一人増えたということです。イエス様はこれが教会にとって、信仰にとって大いなる喜びだと教えておられるのです。
 
この主の愛をこの地に宣べ伝えるため、救いの御業に仕えて参りましょう。ハレルヤ!

中島 聡牧師