『真理の霊が来る教会』
ヨハネによる福音書16章1節~15節
ペンテコステおめでとうございます!
教会の三大祝祭日、クリスマス、イースター、そして聖霊降臨、ペンテコステの日を迎えることができ、本当に感謝いたします。また、この良き日に、洗礼式と転入会式を執り行うことが出来、新たな教会の枝が加えられる幸いに心より感謝いたします。
主の御名を誉め讃えて、聖霊の恵みに与って参りましょう。
ハレルヤ!
ペンテコステとは、50日目、50番目という意味であり、イースター、イエス様が復活されてから50日目に使徒たちに聖霊が降り、聖霊の力を受けた使徒たちの宣教によって教会が誕生していった、ということから、この日を全世界の教会の誕生の日として、祝うことになったのですね。
イエス様は、かつて、弟子たちに十字架による死と、三日後に甦る、復活を預言されていましたが、それだけではなく、この聖霊降臨についても預言しておられました。
それが、今朝の聖書の箇所なのです。ここでは、「真理の霊」と表現されていますが、これは聖霊のことです。ギリシャ語でも、プネウマ、同じ聖霊のことです。
聖霊降臨は決して、偶然、突然のことではなく、イエス様の預言の通りに成就したことなのです。
ですから、イエス様は、自らの命だけではなく、三位一体の神の位格、ペルソナの一つである聖霊さえも弟子たちに与えることを約束され、実行されたということなのです。自らの命と引き換えに、です。
罪を赦すだけではなく、永遠の命を与え、さらにその永遠の命を隣人、他者にも広げていくことができるように、聖霊を与えてくださったのです。
ですから、イエス様が復活されてから五十日目、「一同」に聖霊が降った、この日が、全世界の教会の誕生の日となったのです。
これら、すべてがイエス・キリスト、父・子・聖霊なる三位一体の神の愛によって、ただ愛によって成し遂げられたのです。なぜか? 当の弟子たちは、聖霊を受けるには全く相応しくなかったからです。
もし、彼らがキリストの使徒となるにテスト、試験があったとしたら、全員不合格です。弟子たちは、イエス様が十字架に架かられた後、どうしていたか?彼らは、「ユダヤ人たちを恐れて(ユダヤ教指導者たちを恐れて)家の戸に鍵をかけて」隠れていました。絶対、不合格ですね。
しかし、復活のイエス様は、弟子たちを責めるのではなく、不合格の烙印を押すのではなく、彼らの「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われ」、「あなたがたを遣わす」と再度の弟子派遣を宣言し、「息を吹きかけて…『聖霊を受けなさい』」と言われ」、さらに「天国の鍵」を再授与されたのです(ヨハネ福音書20:19-23)。
もう愛以外のなにものでもありません。これは、贔屓とか、特別扱いというものではないのです。そうするために、わたしがすべてを備え、与えるということなのです。
先ず、十字架によって弟子たちの罪を赦し、そして、聖霊によって、恐れをなしている弟子たちに力を与える、そのために、徹頭徹尾、愛するということなのです。ですから、驚くべきことですが、三日目の時点で、弟子たちはすでに、イエス様の愛によって聖霊を受けているのです。50日目どころではないのです。
ただ、そこにトマスがいませんでした。すると、彼は不満と不信を露わにします。イエス様が復活されたなどと信じない。その傷跡に自分の指を入れてみないことには信じない。完全に弟子失格ですね。また、こんなトマスを説得できない弟子たちも弟子たちです。
ところが、イエス様は、「八日の後」、また来てくださったのです。その時、彼らは家の中にいて全ての戸に鍵をかけていた、とあります。どうしようもありませんね。トマス以外は復活の主に出会っているにも関わらず、まだ鍵をかけて閉じ籠もっているのです。絶対、不合格です。
しかし、しかし、イエス様は、再び「来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言ってくださったのです。そして、ご存知の通り、御傷を示してトマスの不信を取り除いてくださったのですね。
そして、彼、トマスが心から「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白ができるように導いてくださったのです(同24-29)。
愛以外のなにものでもないです。もう一人も欠けることがないように、イエス様は弟子たちを愛し抜いてくださった。さらに、使徒言行録の冒頭にも、こうあります。イエス様は、「お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日まで」とある通り、イエス様は既に弟子たちに聖霊の力を及ぼしておられます。
続けて、こうあります。使徒言行録1:3、4。
イエス様は「四十日にわたって彼ら(弟子たち)に現れ、食事を共にし」、最後にもう一度、聖霊降臨について教えてられました。3日後、8日後、そして、40日にわたって、これはイスラエルの荒野の40年、またイエス様が受けられた荒野の40日の誘惑を意味しています。
この荒野の40年、イスラエルはずっと神様に守られ、約束の国に入ることができました。荒野の40日の誘惑、イエス様は御一人で戦い抜かれましたが、今、弟子たちが、使徒となることができるように、ずっと40日にわたって、イエス様は弟子たちと食事を共にしながら、いわばマナを与えながら、弟子たちを守り抜き、最後の最後、聖霊が降るから、待っていなさいと教えてくださったのですね。まさに愛以外のなにものでもありません。
そうして、イエス様の愛にも愛を重ねて下さった導きによって、遂に聖霊降臨の日がやってきたのです。
聖霊がパッと降って、奇跡的に弟子たちが、世界中のあらゆる言葉を話し始めて、だから世界に教会が広がって、だからこの日が、ペンテコステ、ではないのです。幾重にも幾重にも、イエス様の愛が重ねられ、注がれて、ペンテコステなのです。
主の愛による聖霊降臨とは何であったのでしょうか。
それは、使徒言行録1:5、「聖霊による洗礼(バプテスマ)」を授けられることです。私たちは、水による洗礼・バプテスマによって罪を赦されます。さらに、聖霊降臨によって、聖霊によるバプテスマを授けられ、どうなるのか? 1:8、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」とあります。
それは、「地の果てにいたるまでわたし(キリスト)の証人となる《力》」を受けることなのです。すなわち、伝道者となる、ということなのですね。
では、述べてきましたように、既に弟子たちは聖霊を与えられていました。もうイエス様の復活の日に、愛によって与えていました。何が、ペンテコステと違うのか?使徒言行録、1:14-15、「百二十人ほどの人々が一つになって、心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。弟子たち、婦人たち、イエスの母マリア、イエスの兄弟たち、皆、心を合わせて、一つになって祈っていたのです。もはや、鍵をかけていないのです。
イエス様の何度でも、何度でも、幾重にも幾重にもの愛によって、弟子たちは、ついに鍵をかけることなく、祈ることができるようになっていたのです。これは心を、主に開け放った、主に自らのすべてを明け渡し、お委ねした、ということです。ただ、この一つのことなのです。すると、使徒言行録2:1「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まって」いたら、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし」(2:4)た、聖霊降臨がおこったということなのです。14節「すると、ペトロは十一人と共に立ち上がって、声を張り上げて、話し始めた。」十二使徒は立ち上がり、堂々と福音を宣べ伝え、教会が誕生したのです。
みなさん、聖霊降臨を祝うとは、聖霊のバプテスマを受けて、聖霊の力を注がれて、主の御救いを宣べ伝えることができることを祝うということです。
ここで、聖霊のバプテスマを受けたのは、誰か、ということが重要な鍵となります。聖書に繰り返される「一同」という言葉が、誰なのか、ということです。確かに立ち上がったのは、十二使徒ですが、一同とは、百二十人のことであり、心を合わせて祈っていたすべての人たちです。この後、福音の伝道に仕えたのは、ステファノをはじめ、十二使徒以外の者たちもそうであったことは明白です。伝道者になるということは、イエス様の愛を信じて、自らを委ねるということなのです。
怖いと鍵をかけるのではなく、自分にはできない、自分には無理と心に鍵をかけるのではなく、こんなにわたしを愛して下さるイエス様をお迎えします、委ねます、ということなのです。ただ、そう信じるならば、聖霊のバプテスマを受けて、聖霊の力を受けて、伝道に仕えることができるのです。自分の力でやろうとしたら、こわくなり、続かないでしょう。根底に愛がないので、軋轢をおこし、不和をおこし、やがてはすたれてしまうでしょう。しかし、わたしではなく、イエス様の愛です。
聖霊の力によるならば、その伝道は多くの実を結んでいくことでしょう。弟子たちは、とっくに聖霊は与えられていたんです。
でも、心に鍵をかけていたので、自らの内に湧き上がる泉とはなっていなかったのです。
しかし、イエス様の愛を心底、信じたその時、「聖霊は我らを潔めて義の果みを結ばしめ、その御業を成就したもう」となるのです。
最後に、聖霊降臨日は、五旬祭の日におこったとあります。
五旬祭とは、ざっくり言えば、過越、出エジプトから、50日目にモーセが十戒を授けられ、イスラエルの民が、神との契約を結んだ、大いなる祝福に与ったことを祝う日です。この日に聖霊が授けられたということは、もはや十戒、律法によってではなく、私たちは、聖霊なる神の御力によって神の民となる、伝道者となる、ということなのです。自分のすべてを開け放ち、主に委ね祈るだけで良いのです。
そもそも、神様は天地創造において、人を創造された時、「命の息(聖霊)」を吹き込んで下さった、全くもって愛なる神です。Ⅱコリント12:9、恵みは私たちに十分なのです(Ⅱコリント12:9)。
主の愛を信じ、今日、聖霊のバプテスマを受け、主の御救いを宣べ伝えて参りましょう。ハレルヤ!
中島聡牧師