みことばの糧1201

『祝福の源泉なる教会』

創世記27章18節~29節
 本日より、族長達の歩みに聞いていきます。まずはヤコブです。後に「イスラエル」と名を変えられ、民族の祖となりました。
 しかし彼の人格や言動を見ますと、イスラエルの祖となるには、果たしてふさわしいのか、と思うかも知れません。究極的には神さまの選びによるものであるとはいえども、相手を欺いてまで奪い取るような者が「祝福」を受け継ぐにふさわしいのか、疑問に思わずにはいられないでしょう。
祝福に与れるかどうか、エサウとヤコブを分けたもの、それは彼らの生き方にあるのではないでしょうか? 彼らは双子でしたが、性格も容姿も生き方もまるで違いました。
 兄エサウの生き方は「明日より今日」の生き方、「今が良ければそれでよい」と言う生き方です。だからこそ、目の前の食べ物と引き替えに長子の権利を譲ってしまったのでした。
そしてそのような生き方は突き詰めれば、「自分さえ良ければそれでよい」と言う、極めて利己的な、自己中心的な生き方へと繋がっていくことになるでしょう。その一つの刈り入れとも言うべき出来事が、今日の出来事でした。
 それに対して弟ヤコブの生き方は、「今日より明日」の生き方、「今は多生損するかも知れなくても、将来得をするのならばそちらを選ぶ」という、先を見据えた生き方でした。
 決して、相手を騙すずる賢さがあったから祝福を得たのではありません。さらに言えば、ヤコブといえども「祝福」が何たるかを受け止め切れてはいませんでした。いやむしろ、「祝福」についてヤコブは全く誤解をしていたと言ってもいいでしょう。父イサクにも同じことが言えるかも知れません。
 祝福を受けるにふさわしい歩みをヤコブがしていたわけではないでしょうが、祝福が何たるか、その一端を示されます。それは「今日より明日」の生き方、将来を見据えた生き方、未来へ希望を持つ生き方なのです。
 私たちに与えられた未来への希望、それは何より「天の御国」でしょう。主イエスキリストが与えたもう完全な救いに私たちは与っています。真の命に与り、天の御国入れられる祝福に与っている希望を、なおこの世にあって証ししていきましょう。ハレルヤ!

片平貴宣牧師