みことばの糧1202

『祝福の家なる教会』

創世記28章10節~22節
6月に入り、2024年も折り返しにさしかかりました。と言いますと、時の経つのは早いと思わされます。確かに私たちは有限、限りある時間を生きています。一度限りの大切な時間です。

主は、恐れてはならない、おののいてはならない、また思い煩ってはならないと言われました。主イエスは、弟子たちに復活の御姿を現して、開口一番、「あなたがたに平和があるように」と言われました。平和に生きる、平安に生きる、主が私たちに望んでおられること、願っておられることです。しかし、その平和と平安はわたしたちだけのものではあってはならない。

主は、その平和、平安を届けてくれないかと、わたしたちに呼び掛けておられます。主の御名を賛美し、御言葉の恵みと力を受けて、その喜び、よい知らせを宣べ伝えていくことができますように。

主の御名を誉め讃えて参りましょう。ハレルヤ!

さて、平和と平安ではなく、なんとも騒々しいことになっているのイサク、リベカ、エサウ、ヤコブの物語に学んで参ります。神様の祝福を、言わば私的財産と取り違えていたリベカとヤコブは、イサクとエサウから祝福を奪い取ってしまいました。

そうしますと、創世記27:41-42、エサウが「父の喪の時が来たら、必ず弟ヤコブを殺してやる」と心の声を漏らしましたので、リベカもイサクも、ヤコブを伯父ラバン(リベカの兄)のところに逃がすことにしました。ヤコブは祝福を受け取るどころか身一つでベエル・シェバ(死海下西岸)から北北東に直線でも750kmも離れたハランの地に逃亡しなければならなくなりました。

ここで祝福は途絶えてもおかしくありませんし、ヤコブも絶望するところですが、なんと主はもう、その日の夜に、救いの手を差し伸べてくださったのですね。主は、ヤコブに天から地に届く階段を神の御使いが上り下りする夢を見させられました。これだけでも十分な励ましになりますね。「ああ、主はわたしに、こんなにも不思議な夢を見せてくださった。」ところが、主はこれで終わらせない。主は、自らヤコブの傍らに降り立ち、なんと「第五の祝福」をお与えになったのです。

創世記は、そもそも、神様は私たちを祝福してくださっている、ということが大命題になっています。もちろん、聖書全体を通じての命題でもありますが、創世記はその教えを明白に確実に繰り返し教えるのです。

第1の祝福が、アダムとエバに対してです。創世記1:28、産めよ、増えよ、地に満ちよ、 空も海も地も、すべてを支配せよ。

第2の祝福が、ノアとその家族に対してです。創世記9:1-3 産めよ、増えよ、地に満ちよ、地のすべての獣も、空のすべての鳥も、海のすべての生き物もあなたたちの手に委ねる。

第3の祝福がアブラハムです。創世記12:2-3、13:14-17。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。

さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。また、15:5。主は彼(アブラハム)を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

第4の祝福がイサクです。創世記26:2-5。わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。
:4      わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。
そして、今朝のヤコブへの祝福です。28:13          見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。:14    あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
:15       見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

まさに、第5の祝福ですね。しかし、よく考えてください。まだ、ヤコブは何もしていません。失意の内に、寝入っているだけです。ここにおいて、神様の選びと祝福は決して私たちの功徳、功績によるものではなく、神様の愛と憐れみによるものであることが示されます。ヤコブは決して立派なことをしたわけではありません。しかし、この後のヤコブの姿が大事だと示されます。ヤコブは神様の臨在を信じて、そこを「畏れ多い場所」として石を立てて油を注ぎ、「これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(28:17)と信仰を告白したのです。

祝福を受け損なったエサウは確かに哀れですが、彼は一度たりとも神様に祈ることはありませんでした。一方、ヤコブは一心に祈り求めました。そして、「無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、…すべてあなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」と誓約を果たしたのでした。まさに神様に縋るような祈りでしたが、それで良いのですね。

私たちは主の祝福、主の御守りを信じて祈るならば、御心の限りに祝福され、守られていくのです。神様の祝福の最も大いなることとは、「わたしはあなたと共にいる」ですね。この祝福は、旧約時代には、確かに、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフでありました。そのために、エサウとヤコブに争いもおこりました。ヨセフと兄たちも然りですね。しかし、今や、この祝福は誰か一人にではなく、すべての人に与えられるものとなりました。

子どもの教会でもお話しましたが、イエスの名は「インマヌエル」です。マタイ福音書1:22-23。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられる、という意味である。」
「神は私たちと共におられる」、この最大の祝福が今や、私たち、すべてに与えられているのです。それは、すべての人にこの恵みと祝福を宣べ伝え、手渡していくためです。そのために、イエス様はこの地に降り立ってくださったのですね。しかし、お生まれになっただけではありません。イエス様は石の代わりに十字架を立て、油の代わりに血潮を注ぎ、私たちの救いを祈り求めて、執り為してくださいました。
「父よ、彼らをお赦しください」、その祈りのために、イエス様は、「十分の一」ではなく、すべてを献げてくださいました。このイエス様の愛によって、わたしたちは平和と平安を、祝福を与えられているのです。教会は主の十字架の上に立っています。ここは大いなる神の祝福の家です。

私たちは先ずこの神様の祝福を信じ、感謝と喜びをもって献げ、福音をこの地に宣べ伝えて参りましょう。ハレルヤ!

中島 聡牧師