『祝福は愛によって』
創世記32章23節~33節
昨日は、この御堂において、本間南さんと、杉本拓哉牧師の結婚式があり、大きな祝福に満ち溢れましたことを心より感謝いたします。お二人の新たな歩みの上に主の祝福を祈り、この清水ヶ丘教会から伝道者と共に歩む器を送り出すことになるわけですから、格別の祝福、力づけを祈って参りたいと願います。
また、今朝は、子どもの日、花の日として、礼拝を捧げることができ感謝いたします。子どもの日は、アメリカのメソジスト教会が1881年に、6月の第2日曜日に、子どものための特別のプログラムを持つように定めたことが始まりとなっています。
それに先んじて1856年に、やはりアメリカの教会において、6月の第2日曜日に、お花を持ち寄って、近隣にお届けすることが定められ、今日に至っています。子どもの教会では、子どもたちが、お花を一輪ずつ持ち寄り、それを花束にして、本日の午後、清水ヶ丘病院にお届けし、また、嬉しいことに聖隷横浜病院が、明日、院長も立ち会いの下、お花を受け取ってくださるということで、私たちの気持ちを受け入れてくださること、教会が地域に喜んでいただけることに感謝したいと思います。
いずれにしましても、神様からいただいている恵みに感謝して、地域に仕えていこうということであり、6月22日には、こどもニコニコレストランも開催されますが、私たちは、主から与えられている恵みを、多くの方々と分かち合っていくことができますように、今朝も、御言葉の恵みをいただいて、なお、主と、この世に仕えて参りたいと願います。主の御名を誉め讃えましょう。みなさん、ハレルヤ!
後にイスラエルと名乗り、族長となるヤコブの物語に学んでいます。
しかし、その始まりは、ヤコブが、父イサクと兄エサウを騙して祝福を奪い取ったものですから、兄エサウの逆鱗に触れて、命の危険に晒されることになってしまったという、惨々なことでありました。そこでヤコブは、故郷を離れ、遠くパダン・アラムの地に住む叔父ラバンの許に身を寄せる、身を隠すということになってしまいました。祝福に満ちた族長の後継者どころか、逃亡者になってしまったわけです。
そして、叔父ラバンの下においては、今度はヤコブが騙されることになりました。
しかしですね、ベテルにおいて主がヤコブを祝福してくださいましたので、たとえ叔父に騙されようとも、ヤコブは、その主の祝福の故に、豊かに日々を過ごすことができたのです。そして、実に二十年の歳月が流れ、ヤコブはパダン・アラムの地で有数の資産を所有する者となりました。それは、ラバンの息子たちが激しく嫉妬するまでに、ヤコブは豊かに主の恵みを享受していたのです。ですから、ヤコブはもう、このままでも十二分に幸せであったのですが、帰郷を志すのです。戻ったら兄にどうされるかは分からない。もう二十年も経ってしまい、誰も受け入れてくれないかもしれない。
しかし、ヤコブは主が一族に与えてくださった土地に帰る決意を固めたのです。もちろん、主もヤコブに「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」と告げられました。
しかしですね、ここで、叔父ラバンはヤコブによって自分にも、もたらされる富を手離すのが惜しくなり、報酬の約束を何度も何度も違えて(10回)、引き留めようとしました(創世記31:38-42)。
ヤコブは、その度にラバンの策略に対して堂々と渡り合い、どうしても去らせようとしないラバンに対して、自分が成してきたことをただそのままに話し、自由の身となることを訴えました。これには、さすがのラバンも互いの不可侵の契約をもってヤコブを送り出す他ありませんでした。
ヤコブは、この時、この世の富のためではなく、神を信じ、神の祝福を受ける一族として生きるために、故郷に戻って兄と和解することを決意し、旅立つのです。その帰路ですね、ヤコブは独り、「何者」かと格闘することになったというんですね。その格闘は命掛けのものであり、やがて夜明けとなり、何者かがヤコブの腿の関節を打ち、そのためヤコブの腿の関節が外れてしまった、とあります。
この中で、脱臼の経験がある方はおられるでしょうか。腿の関節が外れる、どんな激痛でしょうか。しかし、それでも、ヤコブは何者かに縋り付き、「祝福してくださるまで、あなたを去らせません」と言ったんですね。
みなさん、ヤコブといえば料理が好きな、想像ですが、どちらかと言えば、そんなに動き回るようなタイプとは思えないですね。しかし、二十年もの間、羊飼い、山羊飼いとして、しっかり働き抜いたので、心身共に本当に強くなっていたんでしょうね。夜明けまで戦い抜き、腿の関節が外れても、引き下がらないわけです。既にヤコブは数え切れないほどの富を手にしています。ここで、無理をしたら命を落とすかも知れないという格闘なんかしなくていいんです。しかし、ヤコブは、まだ、まだ、「わたしを祝福してください!」というわけです。
ヤコブは大きな過ちを犯しましたが、二十年もの間、主を信じ、また主の導きを受けながら生きてきました。ヤコブは、祝福の意味を理解しています。真の祝福とは、兄と和解し、この祝福を分かち合い、受け継いでいくという信仰に至っていることが示されます。今朝の聖書箇所を読みますと、「何者か」とは、神御自身もしくは神の使いと受けとめられます。不思議な問い掛けが行われますが、神的な何者かは、ヤコブの名前を問うのですね。すると、当然ですが、ヤコブは、「ヤコブです」と答えるのです。
しかし、ご存知の通り、これが当然ではないわけですね。かつて、ヤコブは、祝福欲しさに、自分を「エサウです」と偽ったわけです。しかし、今やヤコブは堂々と自分の名を名乗るわけなんです。この件は、何度読み返しても胸に迫るものがあります。私は、このヤコブ物語の一つのクライマックスを初めて聞いたのは、インマヌエル総合伝道団の藤本満牧師からでした。
ホーリネスの群の夏期聖会の講師で来られていて、このヤコブ物語の丁寧な説き明かしを受けたのです。かつて「エサウです」、と大切な自分を、欲のために失ったヤコブが、二十年の時を経て、今、神と相対して、真の自分を取り戻したのです。感動でしたね。すると、神は、ヤコブに対して、「これからお前はイスラエルと呼ばれる」という大いなる祝福を授けられたのです。ベテルにて身一つで、ただ主に信頼し祈った祈り、信仰によって、ヤコブはイスラエル民族全体の祝福を受けるにまで至ったのです。祈りの力の大きさに驚くばかりです。
そうですね、かつて、倉持先生が祈りに祈って、ラング先生、メーヤー先生が祈りに祈って、そして青年たちが祈りに祈って、この清水ヶ丘教会も与えられたわけです。まさに祈りの力、すなわちその祈りを聞いてくださる神様の驚くばかりの恵みに、まさに驚くばかりです。神様は、選ばれし者、祈る者をどこまでも憐れみ、慈しまれるのですね。この主の愛によって、私たちの信仰生活、教会の福音宣教は豊かに祝福されていくのです。
明日、聖隷横浜病院に伺いますが、また、音楽とメッセージを執り継がせていただける集いが再開できるといいですね。もちろん、無理があってはなりませんが、これもまさに祈りですね。二人、または三人が我が名によって祈るならば、天の父なる神はそれを聞き遂げてくださる。
御心ならば、と祈って参りましょう。どうか、福音宣教のために心合わせて祈って参りましょう。ハレルヤ!
中島 聡牧師