『見えないものに目を注ぐ』
コリントの信徒への手紙二4:16~18
私たちの人生は、「目に見えるもの」に縛られません。目に見えない聖霊によって結ばれて、私たちは生きています。しかし実際は、歳をとり目がかすんでくると不便なことも出てきます。私たちは、どのような目で世界を見つめ、神様を見つめているでしょうか?
改めて考えてみると、小さな子どもたちは、私たちが驚くような絵を普通に描きます。なぜなら、彼らは目には見えない「光」や「風」といったものを普通に描くことが出来るからです。「赤い絵の具」で円を描いて、そこから何本も線を引きます。これで太陽の完成です。その子が肌で感じた暖かい感触が「赤色」で、まっすぐに降り注ぐ光が「線」として描かれます。また他の子は、画用紙いっぱいに「色々な色の絵具」で「小さな丸」を描いていました。その子には、光がそのように見えていたのです。皆、時間や空間を越えて描いていました。私たちも、「かつて」はできていました。しかし、神様は私たちに、「かつて」ではなく「今は?」と問われます。では、私たちの現実は、どこにあるのでしょうか?
今日は、「記憶の奥をたずね」という新しい賛美歌を紹介したいと思います。この曲は、去年の日本賛美歌学会で初めて紹介されたもので、これから大切になってくると感じている賛美歌の一つです。
人生100年と言われる時代となりました。「ピンピンコロリ」なら幸せかもしれませんが、現実はそれほど甘くありません。私たちはこれまで、多くの方の姿を見てきました。認知症や高齢化などのために、徐々に教会に来ることができなくなり、友だちや教会のこと、家族や自分のことも分からなくなっていきます。これはとても恐ろしいことです。自分のことならまだ良いかもしれません。それ以上に、神様のことを忘れてしまうのが怖いのです。もしかしたら私は、神様を忘れてしまうかもしれない。「こんな私は天国に行けるのでしょうか」と問われます。私はその度に、「もちろんです!私たちが忘れても、神様はちゃんと覚えていて、招いてくださいますからね」と、力強く語ってきました。
「見えないもの」に目を注いで生きるためには、まず私たちの現実の姿に目を向け、今、何を見つめているのかを考えなければなりません。その点からも、元気になる霊的な賛美歌と共に、私たちの現実に寄り添い、救いの確信を示してくれる賛美歌も、大切になってくると感じています。神様の愛を受けて、共に歩んでいきましょう。
浦上 充牧師