「神のようにならないために―イエス・キリストに委ねる―」
コリントの信徒への第一の手紙4章3~5節
◆父の老後。
母の死に伴い牧師隠退後10年近く埼玉県川口市で一人暮らしをしていた私の父は自由な食生活を楽しんでいたようである。そのためか晩年、父は糖尿病で糖質の摂取制限が課せられた。それまで近所から支援していた弟一家が海外出張となったため、東京都内の任地となった私たち夫婦が父の支援に当たることになった。兄弟たちからは「父の気ままな食生活には十分に注意を払って欲しい。特に糖質の摂取には厳しく望むように。」と厳重に申し入れられていた。案の定、父は杖をついて遠くのコンビニまで、大好物のアイスクリームを大人買いに出ており、父に断った上で冷凍庫からそれらを接収すると、父は隠退牧師とは思えないほど強い口調で「この盗人、強盗、追いはぎ!」と私たちを罵ったものだった。そんな父も特別養護老人ホームに入所すると「ハンバーグも焼魚も何もかもジェル。食べた気がしない。」と言い、どんどんやせ衰えていった。子どもたちにとっては安心安全な施設の生活に思えても、父には刺激の少ない味気ない場所だったのだ、と思わされた。
◆「その年齢にならないと分からないことがある」という真実。
人は若い時には自分自身の人生の終わりについて深く考えることをしない。人はいつまでも生きるものではないのに、目先のことに追われてそのことに中々気付けないのだ(詩編49:8~20“49:8神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。49:9魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。49:10人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。49:11人が見ることは/知恵ある者も死に/無知な者、愚かな者と共に滅び/財宝を他人に遺さねばならないということ。49:12自分の名を付けた地所を持っていても/その土の底だけが彼らのとこしえの家/代々に、彼らが住まう所。49:13人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。49:14これが自分の力に頼る者の道/自分の口の言葉に満足する者の行く末。〔セラ49:15陰府に置かれた羊の群れ/死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き/誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。49:16しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる。〔セラ49:17人に富が増し、その家に名誉が加わるときも/あなたは恐れることはない。49:18死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず/名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。49:19命のある間に、その魂が祝福され/幸福を人がたたえても49:20彼は父祖の列に帰り/永遠に光を見ることはない。)。
◆誰もがやがて消え去る存在になる。
人はそれに薄々気付いているのに、自分の終わりについて心を閉ざしている。クヨクヨ案じるより、触れない・深く考えない方が楽に思えてしまうから、いつも後回しにしてしまうのだ。
◆創世記に失楽園における人の様子が記されている。
そこにある「善悪を知る木の実を食すと、神のようになる」とは「人を裁く者となる」ということなのである。神の問いかけにアダムとエバがしたのは「責任転嫁」、即ち、誰かを裁くということだった。アダムはエバを、エバは誘惑者である蛇を裁いたのである。人は時に神さえ裁くのだ。しかし、彼らが他者を裁くことで得たものは「楽園からの追放」と「死ぬ者となること」と「神との直接の交わりを失うこと」だったのである。
◆「イスカリオテのユダの裏切り」とは何か。
それは「イエスによる救いを拒み、自分で自分自身を裁いてしまったこと」である。イエスの12弟子の一人でイエスの傍近くで過ごしたイスカリオテのユダは「自分自身を裁き、自死の裁可を下した」のである。彼はイエスの裁きに我が身を委ねることを拒んだのである。
◆キリスト者は自分で自分を裁くことさえしない。
この世の中は裁くことに満ち溢れている(コリントの信徒への第一の手紙4章3~5節「4:3わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。4:4自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。4:5ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」)。
私は自分自身に対し「自分には何もやましいところはない」等とは言えない。一人静かに自分自身の人生を回想していると、色々な沢山の恥ずべき罪を思い出すからである。他人を傷付け、自分自身を傷付け、それを忘れようとし、実際に忘れてきたからである。そんな私でもイエス・キリストに裁きを委ねるだけで、天国の門をまかり通ることができてしまうのだから、この神の赦し、愛は驚きに満ちているのである。
◆「人(自分)による裁き」の対極にある「神に委ねる信仰」とは。
キリスト者とは、自分の死に際においても平常通り「神に委ねる信仰」を貫き通す者のことである。死期が迫る中で自分自身の人生、過去を回想すると、そこには惨憺たるもの、惨めな姿ばかりが思い起こされるかもしれない。しかし、それでも神はイエス・キリストに委ねる者に楽園への回帰を約束されるのだ(ルカによる福音書23:39~43“23:39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 23:40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 23:41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 23:42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 23:43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。”)。
私たちは、神のようにはならず(裁く者とならず)、イエス・キリストによる裁きを受け入れて生きる者でありたい。
横浜岡村教会牧師 杉本 泉牧師