みことばの糧1213

『主の召命に応える』

出エジプト記3章1節~10節
「神さまが共にいて下さる」のは、聖書全巻を通して語られている約束の一つです。モーセにとって、この約束が拠り所となったことは間違いないでしょう。燃える芝という不思議な経験を通して、モーセは確かに主なる神さまと出会いました。その出会いを通して神さまは、モーセを整えられたのです。
モーセがエジプトから逃げ出した時が40歳、ミディアンで40年間過ごし、ファラオの前に立ったときは80歳であったと言われます。40年間も逃げ隠れていた者が、はたして人々の指導者としてふさわしいでしょうか?
実際、イスラエルの人々は最初、モーセのことを認めませんでしたし、モーセ自身も「自分はふさわしくない」と自覚していました。そんな彼の心境は4章にあります。
けれども神さまの選びは不思議です。人の目には全くふさわしくないと思われるような人物をも選ばれ、使命を与えられます。務めを果たすのにふさわしいと見える人物が選ばれるのではなくて、神さまは選んだ者をその務めを果たすのにふさわしい者として整えてくださるのです。
私たちからすれば、「そんなことは出来ない」と言いたくなりもしますが、それは全く関係ありません。むしろ、神さまのご用にふさわしい者など誰もいません。けれども神さまが選んでくださるのならば、その務めを果たすのにふさわしい力が与えられます。
それにはもちろん訓練も伴います。モーセにはそれがミディアンで過ごした日々であり、仕上げが神さま御自身の顕現であられる、燃える芝の出来事でした。神さまが共にいて下さるからこそ、モーセはその使命を全うすることが出来たのです。
そのように、人の目には全くふさわしくない者が選ばれ、神さまのご用を成し遂げていく様は、やはり主イエスにも当てはまる事柄です。主イエスはナザレでお育ちになりましたが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言われているのです。
人の目には重んじられなくても、神さまが選び、遣わしてくださるのならば、その使命を果たすことが出来ます。また主イエスはその名を「インマヌエル」とも呼ばれる、とあります。これも「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)という意味でありました。
神さまが共にいて下さる、との約束を私たちも受け止め、与えられている務めを全うしていきましょう。ハレルヤ!

片平貴宣牧師