『聖なる十戒の恵み』
出エジプト記20章1節~11節
主は、奴隷となったイスラエルが苦しみの叫びをあげたので、それを聞かれ、苦役から解放してくださいました(出エ3:7~9)。民は葦の海の奇跡に歓喜の叫びをあげましたが、いざ荒野に入ると、今度は「水が苦い、食べ物が無い」と不平不満の叫びをあげました。
主は、民に甘い水、マナと鶉を与えて、守り導かれました。少々、甘いのではと思えるほどですが、ただ一つ、「安息日にはマナを集めてはならない」と命じられました(出エ16:29)。
主の祝福と加護を受けて、3ヶ月後、民はシナイ山の麓にやってきました。この間も民は水を巡ってモーセと争ったり、余りに多くの訴えをなしたため、十人・五十人・百人・千人隊長を組織立てて、なんとか旅程を進めてこなければなりませんでした。
そこで主は「神の民」としての在り方を明確に示すために、ホレブ山においてモーセに「十戒」を授けることにされました。
十戒は“神の分身”とも言えるものであり、大いなる祝福のしるしでしたので、決して無条件に与えられることはできませんでした。
主は、イスラエルの民が「十戒」を受けるに相応しい「聖なる国民」となるために、「祭司の王国」となることを命じられました。そのため、主はアロンを“祭司の長”に、アロンの子ナダブ、アビフ、エルアザルを祭司に任命されました。
十戒とは、唯一の神のみを神とする信仰の根幹を示すものであり、その証は「安息日を聖別」する、すなわち礼拝を捧げることにかかっているからです。
十戒は第一戒から第四戒において、この御心を顕現させ、第五戒以下、信仰生活の規程を明示しています。十戒に付帯して大量の律法が授けられましたが(20章22節~31章)、その締め括りは、「安息日を厳守せよ」となっています。
本来、見た者は死なねばならなかった神のその御心を、民は十戒として共に生きていくことができるようになったのです。この大いなる恵みをもって、民は真っ直ぐに「約束の地」に進むことができる、はずでしたが“荒野におけるサタンの誘惑”、人の罪は深いものでした。
しかし、それでも主はモーセを立てて民を守り導かれます。今日、私たちはインマヌエルの主と共に、主に仕え、「約束の地」を目指していくのです。
ハレルヤ! 中島 聡牧師